松代まちあるき~旧前嶋家邸宅~

松代まちあるき、今日は昨年の9月に復元工事が終わり、一般に開放された
松山町にある旧前嶋家邸宅です。

前嶋家は代々松代藩真田家に仕え、禄高は江戸中期には300石、幕末には200石だったそうです。
伝わる「前嶋家文書考」に、前嶋家の二代目前嶋作左衛門一之は関が原の戦いの後の
慶長5年(1600年)の12月、真田昌幸、幸村の九度山蟄居の時、
御供をした16人の家臣の一人であったと記されているそうです。

母屋、土蔵、三社(神祠)、庭園等が江戸時代からの面影を残し、
庭はもちろん、お屋敷の中も自由に見学できます。






「旧前嶋邸を護る会」の皆様が大切に管理され、さまざまなイベントが開催されています。
この日は松代町の方達の美術展が催され、ご自慢の品々が並んでいました。




これからの行事として、
香道体験が、
3月5日(土)、4月2日(土) 10:30~12:00に開催されます。

松代町はこれからひな祭りの行事がたくさんあり、まち歩きの楽しみな季節となります。  

2011年03月02日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)TrackBack(0)松代まちあるき

松代まちあるき~長国寺御霊屋編~

今日は松代藩主真田家の菩提寺である長国寺御霊屋を訪ねます。

長国寺は曹洞宗に属し、信州総禄所として格式を誇っています。
往時は徳川幕府が大名と同じ礼遇をもって浴し、「信濃に於いては比ぶべき寺堂なし」と言われたそうです。
天文16年(1547)真田幸隆公が真田郷の松尾城内に真田山長谷寺として建立し、
元和8年(1622)上田藩主であった真田信之が松代移封に伴い、
現在の地に移転されて寺号も長国寺と改めました。
墓域の一部をのぞく長国寺の全域が〔国指定史跡〕に指定され、
歴代藩主墓所、初代藩主霊屋が〔重要文化財]に指定、
四代藩主霊屋、開山堂が[県宝]に指定されています。





とても美しい初代藩主信之の御霊屋です。
今回特別拝観をお願いし、内部も見せて頂きましたが、格子天井の絵は狩野幽筆の作と言われています。
そして破風の鶴は左甚五郎作と伝えられています。
生きているような彫刻で夜な夜な破風を抜け出し、稲を食い荒すので脚に鎖をつけて
飛翔できないようにしたと伝えられる松代の民話の「長国寺の鶴」として有名です。



松代の方に伺ったところ、左甚五郎作といえば日光東照宮の眠り猫が有名ですが、
松代藩は日光東照宮の普請を受け持ち、関わった職人がその技術を持って松代に帰り、
この御霊屋を造ったそうで、このような美しい御霊屋は他にはほとんど無いだろうということでした。

横には四代藩主信弘の御霊屋があります。
かつては五宇の御霊屋が並んでいましたが、三代藩主真田幸道の御霊屋は長国寺火災の後移設され、
開山堂となり、二代真田信政御霊屋も移設され、松代の林正寺の本堂になりました。

御霊屋以外も歴代藩主墓所が並んでいる様は壮観ですし、大正初期に建てられたという
真田幸村、大助親子の供養碑もあり、真田ファンの方が多く訪れています。  

2011年02月25日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)TrackBack(0)松代まちあるき

松代まちあるき ~松代城太鼓門~

「転校生 さよならあなた」のロケ地である松代の魅力を伝える松代まちあるき。
今日は長野電鉄屋代線の松代駅に降り立ち、駅からまもなくの松代城(海津城)を訪ねます。
松代駅では珍しい切符の硬券がまだ発売されていて、旅心が刺激されます。

最近廃線と決定された屋代線ですが、多くの方が反対の声を上げられていて
これからの動向が気になります。

長野電鉄屋代線廃止決定で存続の危機! ←こちらをクリック下さい☆

松代城は戦国時代に武田信玄によって築城された城といわれ
東南北の三方向を山並みに囲まれ、西側に千曲川が流れる自然の地形を生かし
明治の廃城まで300年余りにわたって北信濃の代表的なお城でした。

火災によって建物は失われてしまった為、城としての景観を失い、わずかに石垣が残るのみでしたが、
昭和56年(1981)に、国の史跡に指定され、長野市が1995年より環境整備工事を行って
発掘・文献調査をもとに、櫓門・木橋・石垣・土塁・堀などの修理・復元をして
2004年4月より、江戸時代の姿に限りなく近い状態で復元されて、公開しています。
石垣も可能な限り当時の石を使っているそうです。




(復元された太鼓門)


平成18年4月、財団法人日本城郭協会より「日本百名城」に認定されたそうです。



桜の木が多く植えられてお花見の名所ですが、秋に訪ねた際は燃えるような紅葉が印象的でした。  

2011年02月24日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)TrackBack(0)松代まちあるき

「長野電鉄屋代線存続の危機」ライブ放送!

2/2に長野電鉄・屋代線(千曲市・屋代―須坂)が廃止されることに
なったという衝撃のニュースが駆け巡りました。
ニュースでお聞きしていると思いますが、その経過は、
協議会事務局(長野、須坂、千曲3市)は、今後の屋代線の対応について
(1)鉄道存続のための実験継続
(2)鉄道を休止、バス代替の実験開始
(3)鉄道を廃止し、バスに転換
の3案から1案を多数決で選ぶことになり、26名の委員の方が投票し、
14対11(白票1)で「廃止」と決定になったそうです。

この決定に松代の多くの方たちが声を上げられています。
ひがしざわも「乗って残そう!屋代線」のまちあるきに参加し、この活動は見守りたいと思っておりました。

この「転校生 さよならあなた日記」をリンク下さっている「松代テレビ局」さんは早速1/31の
午後7時から松代テレビ局緊急特別番組「長野電鉄屋代線存続の危機」と題したライブ放送を実施されました。

「松代テレビ局」 ←詳しくはこちらをクリック下さい☆

そして2月15日(火)夜7時30分より、
松代テレビ局しゃべくり松代緊急特別番組『屋代線存続の危機第2弾!』として
松代と若穂の住民自治協議会屋代線対策本部の幹部の方をゲストに招いて
廃止決定に対する今後の対応についてのライブ放送があるそうです。

どうぞご注目下さい。


(松代駅そばを走る屋代線の電車)  

2011年02月08日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(2)TrackBack(0)松代まちあるき

松代まちあるき「閻魔大王図」拝観と御安口三ケ寺巡り 龍泉寺編

3つ目のお寺<曹洞宗 高安山龍泉寺>を訪ねました。

龍泉寺(りゅうぜんじ)のご説明を致しましょう。

-海津城将高坂弾正昌信が母の菩提を弔うために建立したという。
明徳寺四世円室是鑑の隠居寺であったともいわれる。
寛文8年(1668)、禰津八郎右衛門直次が中興開基し、その戒名から山号がつけられたという。
『塊鑑つちくれかがみ』では、当寺が建つ御安町から『後安山』であったのではないか、
それが『高』に代わったのではないかと記している。
隠居寺であったこと、御安町に建つことを案ずれば、そうかもしれない。-





昨年新しく建てられた門と本堂はきらびやかです。

寺額の上に鳥の彫刻が見えますが、うずらでしょうか。




そして今回の寺巡りのハイライト、毎年1/16日にしか拝見できない
山口雪嶺作「大閻魔大王図だいえんまだいおうず」です。
ご住職様にご案内頂きました。
畳八畳分の大きさと迫力に思わず声が上がります。



-大廿世廓導師の代、伊勢町の総大世話人瀧澤兵蔵を中心として制作を依頼した。
雪嶺は伊勢町の小林輔三郎の家に泊まりこみ、明治27年1月1日から15日間かけて描かれた。
毎年1月16日に本堂に掲げ、法要が営まれている。-

昔はここに閻魔堂があり、大きな閻魔像があったのですが、度重なる火災があったため、
善光寺へ一時預かって頂いたところ、善光寺にそのまま留置かれることになり、
像がなくなり寂しいと嘆いた地元の方の要望で山口雪嶺が15日間で一気呵成に描き上げられたそうです。
(その閻魔像は現在も善光寺の本堂の左側にあり、拝観することができます。)

ご覧になりたい方は来年の1/16日をお忘れなく。

龍泉寺のご本尊様は釈迦如来像です。



禅寺でもありますので、達磨大師の像も拝観致しました。



こちらのご住職様はきさくな方でわかりやすく楽しくいろいろご説明下さり、
参加者は寒さも忘れて楽しくお話しを聞きました。



時間の都合でこちらには武家の信仰を集めた勇ましい<勝軍地蔵>があるのですが、
時間の都合で見ることができませんでした。
また是非訪れたいと思っています。
回った3寺は宗派は違いますが、松代藩真田家に大切に加護されたそうです。
そして松代では各お寺を訪ねてスタンプを集める行事もされており、
これもお寺巡りの楽しみの一つです。  

2011年01月28日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)TrackBack(0)松代まちあるき

松代まちあるき「閻魔大王図」拝観と御安口三ケ寺巡り蓮乗寺後編

松代まちあるき「閻魔大王図」拝観と御安口三ケ寺巡り <蓮乗寺>後編

蓮乗寺の本堂へご住職の案内のもと、お参り致しました。
本堂の寺額は身延山門主の筆です。



蓮乗寺の本尊は釈迦牟尼仏様で、
曼荼羅を体現するように仏像化したと、住職様からお話し頂きました。



こちらも大変に美しい天井絵が広がっていました。



本堂内に<象山上京の際蓮乗寺住職と対談の図>の絵と、象山の書が掲げられています。
ご住職から説明頂きましたが、京都に赴くと、生きて帰って来られないと覚悟を決めて
対談に臨まれたそうです。





こちらにも松代藩ゆかりの方の墓所があります。
雪景色の皆神山が背後に広がり雄大な景色です。

富岡製糸所へ勉強の為赴き松代の養蚕業の礎を築き、
その様子を「富岡日記」に書き残した和田英の墓所があります。





今回のまちあるきでは、墓所もいろいろご案内頂きました。  

2011年01月23日 Posted by ひがしざわ  at 08:01Comments(0)TrackBack(0)松代まちあるき

松代まちあるき「閻魔大王図」拝観と御安口三ケ寺巡り蓮乗寺前編

松代まちあるき「閻魔大王図」拝観と御安口三ケ寺巡り<蓮乗寺>前編

次は願行寺横の、日蓮宗 九龍山蓮乗寺へ向かいます。

蓮乗寺(れんじょうじ)の説明は頂いた資料によりますと、
-海津の豪族九竜源吾が佐渡に流される日蓮上人を宿泊させ帰依したことに始まる。
九龍山蓮乗院海津寺と称した。
海津城築城に伴い、現在地へ移り、蓮乗寺と改号した。
一説に武田信玄の臣小幡山城守入道日乗が海津城在城の節、檀那見舞として甲州より来ていた法華坊主を
留置き、寺を建立し蓮乗寺と号したともいう。(『塊鑑』落合保考 著)




まずは、本堂横の七面天女を祀られている摩尼殿にお参り致します。
七面さまと呼ばれ地域の方の信仰を集めており、8/8、9のお祭りには沢山の夜店が立ち
たいへん賑やかということです。

-七面天女 法華経を守護するとされる女神。日蓮宗総本山見延山久遠寺の守護神。
鬼子母神の御子で、別名弁才天功徳天女。
右手に施無畏の鍵を持ち、左手に如意珠の玉を持っている。
末法法華経受持の者には七難を払い、七福を与え給い、誹謗の輩には七厄九難を受けさすという。- 





8月の祭礼時以外は閉められている扉をこの日は特別に開けて頂きました。



七面天女の額は野本勇太郎作の鏝絵(こてえ)です。
鏝だけでこんな細かい柄が表現できるのは驚きです。




そして蓮乗寺は佐久間象山とも関わりの深いお寺です。
門を入ってすぐの参道脇に、佐久間象山の墓所があります。

佐久間象山と蓮乗寺の関わりは
-佐久間象山は、日蓮上人が説いた三大請願による国家思想に強く関心を示し、当寺に帰依する。
象山を登用した八代藩主幸貫も法華経の写経を当寺に奉納している。-




左が象山の墓、右は子息の格二郎の墓所で、
京都妙心寺から佐久間家の菩提寺の蓮乗寺に分骨されたそうです。

ちなみに長野の人は象山(ぞうざん)と読みますが、
ドラマやそれ以外の地域の方は象山(しょうざん)と読みますね。
近年象山自身が自分の名前に<しょうざん>と振り仮名をふった文書が見つかり、
どちらが正しい読み方かの問題には一区切りついたそうですが、
やっぱり地元の方にとっては象山先生(ぞうざんせんせい)です。

続く  

2011年01月22日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)TrackBack(0)松代まちあるき

松代まちあるき「閻魔大王図」拝観と御安口三ケ寺巡り願行寺後編

願行寺の本堂にお参り致します。
寺額は京都知恩院門主の筆だそうです。




ご本尊様は阿弥陀如来坐像です。



正四位勲三等真田幸民が書かれた「城巽林」の額です。



またこのお寺の寺宝として、「阿弥陀如来立像」がございますが、
この由来を説明致しましょう。

-初代藩主真田信之公が没すると近臣鈴木主人は殉死。
臣下の小林彦十郎、金井右馬助、伊木彦六の3名は出家した。
伊木彦六は願行寺住職誓誉上人を導師として得度して信西と称し、
菩薩堂の庵主となり、仏画・彫刻に才を現す。-
「阿弥陀如来立像」はこの信西の作です。
出家した後素晴らしい仏像を残されたのは、文化・芸術を大切にした松代藩出身ならではでしょう。

松代藩藩祖真田信之公の御骨、御位牌、御尊影を納めた厨子です。
信西が菩薩堂に祭っていたもので信西没後、願行寺に祭られているそうです。



願行寺の天井絵がとても素敵でした。
松代には美しい天井絵が多くあり、お寺巡りの楽しみの一つです。
色鮮やかな花の中に蝶や鳥、りすが遊び、極楽浄土のようでした。




  

2011年01月21日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)TrackBack(0)松代まちあるき

松代まちあるき「閻魔大王図」拝観と御安口三ケ寺巡り願行寺前編

松代まちあるき「閻魔大王図」拝観と御安口三ケ寺巡り <願行寺>編

1/16日に開催された<松代城下町「閻魔大王図」拝観と御安口三ケ寺巡り>に参加致しました。
まず<御安口>とは、松代城下南東の木戸門のあったところで、
中世武将・東条左衛門尉の娘・御安御前のお屋敷の入口だったそうです。
現在は木戸門はありませんが、お寺の敷地の中に門に続いていた土塁のなごりを見ることができます。
御安御前は源頼朝が善光寺にお参り来た際、見初めた美しい娘という言い伝えが残っています。

この御安口にある3つのお寺<願行寺><蓮乗寺><龍泉寺>を訪ねました。
1/16は龍泉寺所蔵の「大閻魔図」が年に一日だけ公開される日で多くの方がお参りに訪れます。
大雪というまちあるきには、あいにくの天気でしたが、松代の美しい雪景色に出会うことができました。

まずは浄土宗 功徳山廣大院願行寺を訪ねます。




願行寺(がんぎょうじ)の説明を、頂いた資料からいたしましょう。
-天分年間(1532~1555)海野左京太夫幸義が、父棟綱の菩提を弔うために建立した。
開山は武州品川の登誉上人。
真田家の松代移封に伴い、現在地に移転。
城郭の巽の方角にあたることから、「城巽林」の称号を賜る。
北信四郡浄土宗の触頭(ふれがしら)であり、「大にして善光寺、小にして願行寺」と
言われる程に整った伽藍を有していた。-



参道に松代藩とつながりが深い方達の碑が建立されています。
松代学の祖、林単山・医学を研鑽した龍田梅齋と鎌原桐山の碑ですが、
資料から詳しくご紹介致します。

松木竹山の碑
佐久間象山門下・文学、西洋学を学ぶ。
維新後、藩命により甲府で義勇隊隊長。その後越後水原県戌守。松代藩文学教授。
明治5年学制発布で上高井郡勤義学校・海津学校校長。
晩年は上田で師弟を教訓する。
題額 男爵真田幸世
撰文 羽田桂之進

林単山の碑 
矢代村武田家に生まれる。同村林家へ養子にいく。
江戸に出て林祭酒述齋の門に学び、文化3年松代藩に召され、江戸溜池邸で経義を講じる。
文化10年松代に移り、師弟に教授。文政3年文学席となり、後に藩儒者役(藩学の最高責任者)となる。
撰文 鎌原桐山

龍田梅齋の碑
藩侍医。和漢の医学を研鑽し、医学総督となる。
龍田家は加藤肥後守の一族。
龍田玄道、医学を松代藩に仕える。梅齋は幸専・幸貫・幸教・幸民の真田四代の奉公する。
幼少より秀慧、和漢の医学を研究し、
調剤、臨床共に卓越。門下生、甚だ多し。
梅齋、酒を好み失態を演ずること度々。藩公より禁酒を命じられた。

正面佐久間象山筆
撰文 鎌原桐山



碑と並んでいる<乳のみ地蔵>。
地域の方の信仰を集めていらっしゃいます。
その日は綿のような雪を抱えていっそう優しい風情をされていました。



その向こうは徳本上人の碑です。
徳本上人は五穀、塩、火を通した食物を断つ修業「木食戒」の修行をされた上人様で、
とても体が軽かったので、お風呂に入られても体が浮かんでしまい、何人かの僧で肩を押さえて
沈ませたという逸話が寺に伝えられているそうです。

少し離れて立っている碑は宏道流東山道目代陽雲齋岩村春岳の碑です。
松代藩は武士の数が多かったため、城への参勤は3日に一日で、
今で言うとワークシェアリングのようなしくみがあったそうです。
城に行かない2日は足軽に至るまで華道、茶道、絵などの勉強を必ずするようになっていたそうです。
華道の師範は剣術の師範同様多くの武士の尊敬を集めました。
まさしく文武両道ですね。
現在の松代でも華道は多くの方がたしなんでいらっしゃり、教室も沢山あります。



続く  

2011年01月20日 Posted by ひがしざわ  at 09:00Comments(0)TrackBack(0)松代まちあるき

ながのまちあるき ~松代祝(ほおり)神社編 後編

松代まち歩きガイドブックによると、
祝(ほおり)神社-通称お諏訪さん。古い延喜式内社で、町人町の氏神様。
明治24年の大火の際、天皇家から見舞金を拝した羅災恩賜記念碑がある。-

拝殿は、獅子が振り向いた様子の<振り面獅子鼻>が見られます。







天神社は立川流の彫物でしたが、こちらは亀原流が施されています。
一つの神社に両方が見られるのは珍しいのではないでしょうか。

拝殿の奥に建つ本殿は立ち入ることはできませんが、やはり見事な彫物が施された美しい建物です。






屋根に真田氏の六文銭が見えますね。その先にあるのは...



御柱です。



また、こちらには海神を祀る宗方社があります。




いろいろな建物と彫物を楽しめる松代祝(ほおり)神社に出かけませんか。  

2010年12月26日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)TrackBack(0)松代まちあるき

ながのまちあるき ~松代祝(ほおり)神社編 前編

まずは長野市松代町の祝(ほおり)神社の天神社の彫物をご紹介しましょう。
立川流の立派なもので、その立体感には感嘆の声をあげてしまいました。



(獅子)


(獏)


(鷹)




続く  

2010年12月25日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)TrackBack(0)松代まちあるき

秋の松代町武家屋敷お庭拝見 ④

こちらのお宅も石畳を彩るように菊が咲きこぼれます。



池に低く枝を垂らした松が見事です。
<投枝なげしの松>と言われるそうです。



そして池の中に中州をつくるこの形式は神様のいらっしゃる土地の、
須美山しゅみせんを模しているそうです。





琥珀色の水面に空が映り、ゆっくりと鯉が横切ります。



この光景が庭園巡りのなかで一番落ち着きました。
普段ゆっくり水面を見る機会が少ないですが、水のある風景は心を落ち着かせます。
この泉水路がある事が松代のお庭の特徴と思いますが、
多くの方を惹きつけている理由だと思います。

またこのF家のおうちも古いものが残されていて素晴らしく、
まず玄関のたたきにある、今でいえばタイル風の陶器が可愛らしかったです。





そしてこの後午後からは信州大学農学部 佐々木邦博教授による
「松代藩 江戸時代の水路網と庭園について」の講演会が開催されました。

  

2010年12月19日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)TrackBack(0)松代まちあるき

秋の松代町武家屋敷お庭拝見 ③



山茱萸(サンシュユ)の木。
前回松代町では泉水路を使った鯉の養殖が奨励されたと書きましたが、
サンシュユの実は強精薬、止血、解熱作用があり、薬の原料として用いられますが、
ここ松代では鯉をみそで煮る料理の<鯉こく>を造る際に、実を入れると鯉の骨が柔かくなるため
珍重され、武家屋敷の庭園に、この木が植えられたそうです。

他にも武家屋敷の庭園は柿、ざくろ、杏、梅が多く見られ、庭園が観賞用だけではなく
生活の場でもあったことが伺われます。
また、高木だと松や紅葉、樫、低木だとつつじ、サツキ、紫陽花が植えられ
四季おりおりの表情を見せてくれます。

E家の庭園。
植栽が豊かで高木と低木が配置よく植えられ山野草も多く、そのまま後ろの
象山につながっていくような雄大さを感じます。
吾亦紅や竜胆、ホトトギスが見られるそうです。




代官町の通りで鮮やかに咲く、つわぶきの花。
秋のお庭拝見では優しい秋の草花に多く出会えました。
春も華やかで素敵でしょうが、秋の草花は松代の町並みにしっくり合います。



ここで改めて松代の武家屋敷の構成をお話ししましょう。

まずは真田信之が松代町に移封になり、その家臣団の居住地として新しく住宅団地が造成され、
南北に貫く道路と川に沿って短冊形に区切られた土地を与えられ、道と川の内側を
門塀で囲って防備を固め、横同士は自由に行き来できる解放的な形の屋敷だったそう。
そして池と池をつなぐ泉水路が屋敷をつなげました。

まず公的な空間として、<屋敷門>から入り、<前庭>を抜け玄関まで至ります。
玄関にあがって座敷の前に<庭園>が広がります。
そして庭園の向こうにその屋敷の農地が広がります。

いよいよ最後のお宅、F家へ参りましょう。
泉水を超え、美しい前庭が広がっています。



続く  

2010年12月18日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)TrackBack(0)松代まちあるき

秋の松代町武家屋敷お庭拝見 ②

C邸。
入口をくぐると石畳沿いに大きな池がひろがります。




こちらはお庭は大変広く、参加者の皆で縁側に座り、
主の気分を感じながら庭園を鑑賞致しました。



屋敷前の勾玉型の池が青空を移します。



右手の象山、左手に皆神山、正面のノロシ山が広く見渡せます。
ただお庭の維持は大変という事で最近いくつかの木が切られてしまったそうで、ちょっと残念です。


(昔の生活を偲ばせる小さな洗い場の池)

代官町の通りを歩くと象山自体が庭のような広大な景色に出合います。




D邸。
こちらも池に鯉が遊び、美しい菊の花が訪れた方を歓迎するかのように咲き誇っています。







続く  

2010年12月12日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)TrackBack(0)松代まちあるき

秋の松代町武家屋敷お庭拝見 ①

普段未公開の長野市松代町の個人のお宅のお庭を巡るツアーに行って参りました。

いただいた資料によると、
-江戸時代から受け継がれた武家屋敷のお庭拝見

周辺の山なみを取り込んだ「借景」、池から池を流れる「泉水路せんすいろ」など、
松代のお庭の特徴は、江戸時代から現在まで、そこに住む人々によって守られ、受け継がれてきました。
まさしく生きている「文化財」としての価値があり、「庭園都市・松代」の象徴といえます。-
と書かれています。

平成13年から始まり、毎回大人気のお庭拝見、
今回の秋のお庭拝見も100名以上の方が参加されたそうです。
その日のみ、公開された約40件のお宅をいくつかのコースに分かれて回ります。

松代城(海津城)のお庭の様子の説明をうけながら、始まりました。
かつては海津城内の藩主の御殿「花の丸」には南側と北側に庭園があったそうです。
庭園にはいくつかの茶室があり、茶道や和歌をたしなみ、藩主の公式儀式の場でもあったそうです。
今は茶室はなく、かつてを偲ぶよすがはあまり有りませんが、
桜が植えられ春には多くの方が訪れる場所となっています。


(外堀の一部が残っている池田満寿夫美術館前。
白い柱が建ってるところがかつてのお城の入口でした。)

真田邸わきで菊花展が開催されていました。
松代で多く栽培されている大輪の菊は江戸時代に京都から苗を運び、
その苗を武家屋敷で育てたのが始まりだそうです。
そしてその苗は善光寺門前、須坂、屋代など近隣のまちへも広がったそうです。
今も伝統は守られ、多くの方の目を楽しませて下さいます。



まずはA邸へ。(普段は公開されていない個人のお宅なので仮名で失礼致します。)



そのお宅の池へと続く泉水路。



門をくぐり、玄関を回りこんで、母屋の座敷前にひろがる、庭を見せて頂きます。
池は泉水特有の琥珀がかったたゆたう水面に鯉が映え、
流れこむ水の瀬音が絶え間なく聞こえ、目だけでなく耳からも心が落ち着く造りになっています。
江戸時代に財政を助けるべく鯉の養殖が奨励されたそうですが、
現在も観賞用として多くのお宅の池で鯉が飼われています。



(池の真ん中の亀石。まさしく亀のようです。)

松代の庭園は質素を旨としていました。
華美な庭石はあまりありませんが、
三尊石(例えば中央に薬師如来様、両脇に日光、月光菩薩様を表す)や
大きな礼拝石を持つお庭があります。
禅に基づく精神性を池に込めるなど、多様な文化が具現化されています。

そして庭から「借景」として象山(ぞうざん)が見え、遠近法を使い、より広がりを感じさせます。



石蕗つわぶきの花。
松代の武家屋敷の庭園にとても合う花だと思いますが、訪れたときは松代のあちこちの庭で咲いていました。
そして立派な松が多く見られます。



敷地の外を流れる泉水路。
きれいな水は「泉水」として次の家の池に流れこみ、汚水は畑へ導かれました。
水の流れはそれぞれの家を巡っているので、米のとぎ汁等の生活の排水で、
その家の暮らしがわかるので、相互監視の役目もはたしていたそうです。



B邸。
こちらも庭園の池が見事です。
池に張り出す松は<見越しの松>と言われ、大事に守られています。



今回の庭園めぐりには入っていませんでしたが、茅葺きの家があり、
まちあるきの目を楽しませてくれます。



続く  

2010年12月11日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)TrackBack(0)松代まちあるき

ながのまちあるき ~松代町金箱邸~

2007年度に長野市が取得し、保存と公開に向けてこれからワークショップを重ねる予定の
松代町の金箱邸をご紹介しましょう。

遊学城下町 信州松代 たてもの36選 丸山日出夫著より
金箱邸の説明を転記しますと、

-金箱家は当初御安町に店を構えていましたが、松代大火後に大林寺と屋敷替えをし、
寺町に店・屋敷を建設し質屋を生業としました。
通りに面して店を構え、土蔵3棟、表門、住宅母屋、離れ屋敷など多くの建物が建設されています。

明治24年の松代大火直後から2年後の26年に掛けて建設されました。
大火を教訓に軒裏から雨戸や格子桟まで漆喰で塗り固めた耐火造りとなっています。
藩政当時は特別に許された武家しか造ることができなかった薬医門を表門とし、
脇に見越しの松を植えています。
7寸角の親柱に見事な役瓦を多く用い藩政期とは明らかに異なる立派な造りで
金箱家の経済力を誇示した物といえます。

訪れたときは中に入れなかったのですが、外から伺える部分だけでも
見事な瓦を見ることができます。



(薬医門上の役瓦、生きているような亀の姿です。)



(同じく薬医門の上部)


(火災から家を守るという兎と波の文様です。)



これから金箱邸か゜どのように活用されていくのか見守りたいと思います。

  

2010年12月05日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(2)TrackBack(0)松代まちあるき

ながのまちあるき~ 松代寺尾 石の文化と真田氏ゆかりの地 ⑤

寺尾編もいよいよ大詰め。

奇妙山を借景に堂々と建つ大瀑山禅福寺(おおばくさんぜんぷくじ)が見えてきました。




大瀑山禅福寺-大室氏の開基で、天文3年(1534)
内山(佐久市)正安寺の宗察(大室氏の一族)が開いてその末寺となった。
のち衰徴したが、七世徳国のとき、真田信之の娘見樹齢が、客殿・総門を寄進して中興開基となった。
境内には不動尊のほかに、開基大室氏の墓だと伝えられる五輪塔、鳥打峠にあった茶地蔵、
松代藩八代藩主真田幸貫の歌碑や俳人たちの句碑がある。
また岩山を背景にした池があり、幸貫は水墨画のような風景を愛し、ここを訪れ、絵文を書き残した。



かつて旅人を見守っていたであろうお地蔵さまの深い表情に心を打たれます。




そして境内では曼珠沙華が盛りで、そこで炎が燃えているような錯覚が生まれます。




真田幸貫が愛したという池は、岩山に囲まれ静謐で神秘的でした。
色あいから<琥珀池>と呼ばれているそうです。
またゆっくりと訪ねてみたいお寺でした。




大室のまちを歩いて、古い建物に出合いました。

蚕が盛んだったころの蚕室や蔵など…
広い空に秋のうろこ雲が流れてゆきます。




高井大室神社の前を通ります。

高井大室神社-古くは伊勢社だったが、幕末に現社号に改めた。
大室地区の産土神で、祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)、八坂刀売命(やさかとめのみこと)。
境内には「平恪(佐久間象山)」が蟄居中に書いた道祖神の文字を刻んだ高さ3mの大道祖神の
石碑や、高市大神(たけちのおおかみ)・筆塚・招魂碑などが合祀されている。
なお、大正年間までここで市が開かれていた。高市大神の碑はその名残りを伝えている。




佐久間象山が書いた文字を彫った碑は堂々としていて素晴らしかったです。

そして、長野電鉄大室駅から屋代線に乗り、松代駅に戻り今回のまちあるきは終了です。
秋の一日、寺尾の歴史や美しい風景に触れ楽しいまちあるきでした。


  

2010年11月07日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)TrackBack(0)松代まちあるき

ながのまちあるき~松代寺尾 石の文化と真田ゆかりの地 ④

武田信玄から黄金の如来と堂宇の寄進を受けたゆかりの<柴の阿弥陀堂>に着きました。




<柴の阿弥陀堂>-応仁年間(1467~1469)下総(しもうさ/千葉県、茨城県等)の武士
吉池重次が出家して行西(ぎょうさい)と称し開山したと伝えられる。
川中島の合戦後、武田信玄が寺堂を寄進。
以前はもっと千曲川のほとりにあったが、大正年間の千曲川堤防の改修工事時に現在地へ移転した。
元禄年間(1688~1704)には、江戸・京都をはじめ北陸・四国方面への出開帳も行われている。
また、『善光寺道名所図会』にも掲載されている。

立派な仏像を見せて頂き、39代目となる現当主さんにお話を伺いました。



昭和の初期まで、現在の山本勘助の墓のある場所に建っていたそうです。
善光寺と並ぶ名所であったそうで、昔の写真を見せて頂きましたが、
なるほど重厚なお堂で、現在も在ったら多くの方が訪れたとでしょう。
時代が移り変わり、河川敷には建物は建てられないということで現在の場所へ移転されました。



ここはまさしく川中島合戦の地。
歴史を感じる武田信玄や上杉謙信のゆかりの場所が多く残っています。

次は金井山のある松代柴地区から離れて小島田の津島神社へ。

津島神社-小島田地区の産土神で、祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)。
慶長9年(1604)に勧請、津島神社(愛知県津島市)の御師堀田馬太夫が分体を奉納したと伝えられる。
境内に地区内にあった金比羅社、八幡社、秋葉社、桜田社、天神社の石祠を合祀するほか、
山の神、庚申塔、蚕神碑、なども祀られている。
また拝殿には俳句額やユニークな天井絵がある。




天井絵と俳額に目を奪われました。



続いてすぐそばの名立神社へ向かいますが、その途中に屋敷神(秋葉社)が祀られている
和田家の前を通ります。



和田家屋敷神-屋敷神は一般にその土地を守護する神で、屋敷の裏や敷地に付属した土地や
離れた山林に祀られることが多い。
起源はわかっていないが、農耕神・祖先神と同一の起源を持つ神だと言われている。
同家には屋敷神のほか、古井戸も残り、往時を偲ばせてくれる。



昔から変わらない風景の個人のお宅の屋敷神が今も見られるのは、歴史が息づく松代ならでは。

名立神社に着きました。
名立神社-牧島地区の産土神で、祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)、
建御雷命(たけみかづちのみこと)。
牧島公民館に隣接、拝殿の向拝など彫られた彫刻は精緻に作られている。
拝殿に入って上を見ると、昭和61年(1986)の奉納天井絵や、俳句の額が飾られている。
閑静な境内に富士浅間社、秋葉社、天神社、金比羅社、可里田社、山の神、
養蚕神、伊勢社外宮(内宮社は明治期に集落北に移設)を祀る。

津島神社、名立神社はたくさんのお社が集まっており、この地域の方々の心の拠りどころであったのでしょう。

ここで昼食となりました。
皆で座っておにぎりや、おやきを頬張るとひときわ美味しく感じます。





ここにも素晴らしい天井絵が。



松代は美しい天井絵に多く出会えるまち。
天井絵を巡るのも楽しいまちあるきになりそうです。

続く  

2010年11月06日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)TrackBack(0)松代まちあるき

ながのまちあるき ~松代寺尾 石の文化と真田氏ゆかりの地 ③

山本勘助の墓はボランティアの方たちが案内して下さいます。


(山本勘助のお墓(墓石)は商業目的の撮影が禁じられています。
もちろんこのブログは商業目的ではありませんが掲載は自粛させて頂きます。)

-山本勘助は真田信玄の軍師と伝えられる人物で、その墓が柴の河川敷内にある。
元文4年(1739)、松代藩家老藤原重栄が、高畑(南側)から柴阿弥陀堂境内だった
現在地に移し。その子孫の藤原重賢が修復に尽力した。
大正年間の千曲堤防工事で阿弥陀堂は移転、墓だけが残った。
山本勘助は、川中島合戦の際、その作戦(きつつき戦法)を見破られ、自軍を危機に陥れた
責任をとって、大軍の中に斬り込み討ち死にしたといわれている。-

墓石の各面にこの地にお墓を移したその経緯が刻まれています。





この付近は古い立派なお宅が多く見られます。



柴神社にやってきました。
ここでお昼です。
松代のつたやさんによるおやきやパンの販売がありました。




-柴神社 柴地区の産土神。以前は堀ノ内地籍にあったが、万治元年(1658)現在地に移転。
祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)、八坂刀売命(やさかとめのみこと)。

石造りの鳥居があり、境内に養蚕神、秋葉大神、疱瘡神、水天宮などがある。-

境内には保存樹木のケヤキが青々と葉を繁らせていました。




そしてここ松代町柴地区は柴石が産出され、古くから石の加工業が盛んとなっています。
「新井美術彫刻石材店」にお邪魔しました。
技術の確かさを表現する彫刻がいろいろ置いてありました。




曲線が多いかばを石で見事に表現しています。



航空母艦?




続く  

2010年10月09日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)TrackBack(0)松代まちあるき

ながのまちあるき ~松代寺尾 石の文化と真田氏ゆかりの地 ②

真田山大峰寺(さなださんだいほうじ)をご説明しましょう。

-初代藩主真田信之の遺言によって万治元年(1658)長国寺の観国が寺を開創。
文政7年(1824)に本堂と墓地を大改修。
藩は寺領100石を寄進し、金井山と金井池は放生山、放生池として、周辺一帯での遊猟を禁止した。
寺から東寺尾村までは松並木がつづき、藩によって保護されていた。
境内には市文化財の真田信之の廟所や御霊屋(明暦3年建立)があり、本尊阿弥陀三尊と
真田信之の木像が安置されている。-


(青空に六文銭が映えます)


優美な屋根が目を引きました。



特別に御霊屋を開けて頂きました。
あまり時間がなくゆっくりと拝観できなかったのでまた機会を改めて伺いたいと思います。






そして真田信之の墓へ向かいます。
住職さまにお話を伺います。

-大峰寺境内の廟所にある松代藩真田十万石の初代藩主真田信之の墓で、
高さ3.3mの宝篋印塔。
信之は明暦2年(1656)に隠居し、一当齋と号してこの地に移り、
同4年93歳で没している。
廟所には歴代藩主が寄進した石鳥居や石灯籠、殉死した鈴木右近の墓もある。-

この時代で93歳まで長生きされたというのはびっくりです。
お寺のお墓に鳥居?と思いますが、後の藩主が信之を神格化した為とのことでした。





次はNHKの大河ドラマでおなじみ、「山本勘助」の墓に向かいます。



お墓を守るように大きな胡桃の木がありました。
「勘助くるみ」として墓所にて販売されています。



勘助役の内野聖陽さんが植えられた松がありました。




続く  

2010年10月08日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(2)TrackBack(0)松代まちあるき