長岡百花繚乱の紀~『空花 Big day!』③
続いては、「監督と長岡との出逢いのきっかけはどんな感じだったのでしょうか。」という質問です。
「この長岡の花火を、私は2009年に観たのです。それも、長岡の友達から、「花火を観に来ないか。」と誘われて。大きな花火だとは聞いていたけれども、所詮イベント花火で、観光客集めの、土日にボンと上げて終わりだろう、と。ただ、友達に逢うのも良いかなと思って行ったのです。行って、あの1キロの幅の信濃川が夕暮れになって、群青色という美しい日本の空色になって、ああ、こんな日本の黄昏が、ここにはまだ残っていたのだな、と思っていたら、花火がドーンと上がって、じわーっと消えてゆくのです。涙が出ちゃった。横を見ると、うちのパートナーの恭子さんも涙を流していて、「何やら花火を観て涙が出るよ。」って言ったら、「まるで映画みたいね。」と。映画がそうでしょう。富司さんや夏希ちゃんの今日の素敵なファッションやメイクは、目で見えますよね。でも、それだけでは感動しませんよね。皆さんが感動されるのは、富司さんや夏希ちゃんの心の中が、魂が見えたからでしょう。そんなものは、3DでもCGでも見えませんよね。それは、やはり皆さんの想像力が、心を映してしまう。だから涙が出る。この花火も、消えた後の夜空に、です。次の花火を早く上げろ、というのがイベント花火だけれど、その暗闇の中に、先ほどの群青色がちょっと暗くなったかな、なんて思っているうちに、涙が出てきた。この花火には、映画と同じで心が見える。それで、横にいた森民夫市長に、「市長さん、この長岡の花火には、魂が、心がありますよね」と、冗談のように聞いてみました。真面目に聞いたら笑われますからね。そしたら、森民夫さんが真面目な顔で、「監督、見えましたか。実はこの花火は…」ということで、ちょうど皆さんにいまご覧いただいた長岡花火の物語を、私は初めてそこで知って、そして、更にその長岡の花火という私の大好きだった絵を描かれた山下清さんが、「世界中の爆弾を花火に変えて打ち上げたら、世界から戦争がなくなるのになぁ。」、あっ、この言葉だ、と。私は、映像から映画を創ろうとは思わないのです。良い言葉と出逢ったときに、この言葉を映画にして伝えたいな、と。つまり、言葉は魂ですから、映像ではないですから、その言葉が聞こえるように、映像を配置して、映画を創る。だから、そのときに決めたのです。」
と、『この空の花~長岡花火物語』の誕生秘話を語られます。

(山下清画伯の『長岡花火』ちぎり絵)
そして、先日の長岡での初日舞台挨拶でもお話しをいただいた東日本大震災被災者の話へと続きます。
「それから、3.11にあって、さあ、これから私たちは、未来の日本をどうするか、と。みんなが今まで正しいと思っていたことも、反省し直さなくてはならない。私たちも表現能力を失いました。もう映画なんかできないよ、と。正やんだって、無力だったよね。みんなが、そう。絵描きさんは絵が描けなくなるし、僕たちも心のスクリーンが真っ白になりました。ただ、そのときに、日本で素敵な表現をしていた人たちがいました。東日本の被災者の方たち。ご自身が一番辛い悲しい苦しいのに、自分よりももっと辛い悲しい苦しい人たちがいるから、私は、愚痴は言いません、めげません。その人たちの心を思いやって、一緒に頑張ります。更には、たくさん支援を受けたから、きちんと恩返しができるように、我が古里を復興させます、と。感謝、我慢、思いやる、未来を手繰り寄せて平和にしようという再生の勇気、知恵。これに世界中の人がびっくりしたでしょう。更に、僕たち日本人も、忘れていたよ、あのような魂を。僕たち日本人、みんなそうだったよね。復興とは、と思ったときに、今日皆さんにご覧いただいたこの映画の精神、長岡花火の精神は、あの戊辰戦争で、日本が新政府をつくって、世界に門戸を開いていった、あのときから長岡は負けているのですね。そのときの復興とは、「物やお金じゃない、この里で暮らす子供たちが、この里に誇りを持って、大人たちを信頼して、共に未来の平和を手繰り寄せる力を持つ、そういう子供たちを育てることこそが復興である」と。ああ、まさにこれからの日本の再生はそれではないか、と。日本人が美しくなること、そのことを東日本の人たちから学んだのだから、と思ったときに、この映画は今こそ創るべきだ、と。実は、長岡花火も自粛しようということになっていたのです。でも、あの中越地震のときに、何よりも私たちはこの花火を上げた。1円のお金もなかった。だけれども、この花火を上げることで、この里の子供たちが、この里に勇気を持って、誇りを持って、未来を創る。その子供たちのために、明日のために、花火を上げました。映画だって花火と同じように、一見無駄なものだけれども、花火の心が永遠に焼き付くように、映画の想いもきっと永遠に焼き付く大切なものだから、映画も打ち上げます、とおっしゃってくれて。そして、花火も映画も一緒になって2011年8月1日を期して、打ち上げた。同じ日に、石巻でも、長岡花火が打ち上げられていたというね。」
『米百俵』の精神は、過去・現在・そして未来へ。
話題は、東日本大震災の被災地である福島の子供たちのある取り組みに-
「実は、私は3月11日のとき九州にいて、「監督ついていたね、もう九州から出てこない方が良いよ、東京だって危ないから」と聞いたときに、「冗談じゃない、俺は福島に行く」と決めたのですが、そのとき私は73歳でした。ただ、この爺さんが行っても何の役にも立たないのです。僕は代々医者の息子だったから、医者だったら役に立つのになぁ、と思ったのです。力仕事は駄目ですし。それに、劇映画の監督が、被災地に行くことは良くないことなのです。劇映画の監督というのは、これは良い画だと思ってしまうのです。あの被災地に行って、これは良い画だぞ、なんて思ったら、バチが当たります。だから、行かないと決めたのです。その代わり、心を一生懸命に寄せて、東日本と一緒に生きようと思いました。そして、3月13日か14日だったかな、震災のすぐ後です。南相馬の少年、高校生が、「今まで一生懸命とか、頑張るとかいうのは、ダサくて嫌だったけど」と。それはそうですよ。一生懸命にやったって、頑張ったって、ロクな明日は来ないということは、大人が造ったいまの社会はそうですからね。子供たちにそう言われるのは、大人の我々が駄目だから。しかし、その少年が、「これからは僕が一生懸命に頑張って、この古里を復興させます」という言葉を僕は新聞で読んだのです。そこからシナリオを全部書き直しました。そして、皆さんにご覧いただいた映画にも南相馬の少年に出演してもらって。そして、映画の撮影が終わって、震災から1年後です、ようやく南相馬に行きました。南相馬の小学校、中学校、高等学校は、大きなグラウンドですが、野球もサッカーもできないのだそうです。なぜならば、使えるのが1時間だから、ゲームが終わらないのですね。そして、そこの高校の女の先生が、福島の方に引っ越されたのです。そのとき被災地に咲いていた、一本の桜の枝に咲いた花、こんな小さなか弱い花だって、ちゃんと咲くんだと。私たち人間も、ここでちゃんと咲こうということで、その先生は、壊れた校舎の瓦礫を自分で集めて、自分で洗われて、生徒たちと一緒に、瓦礫に桜の花の絵を描いたのです。花の絵なんて描いたこともない男の子たちまでが。そして、瓦礫というのは本来が校舎ですから、そこには、かつてあった壁画の色だとか色々なものがあって、想い出がいっぱい詰まっているのです。そこで、僕は、山古志の人たちと同じだと思ったのです。つまり、大人は瓦礫を片付ければそれで復興だと思うのですが、山古志の人もそうでしたね、瓦礫を残して、瓦礫の痛みを記憶して、そして、その痛みや皆さんからもらった支援に対する感謝の気持ちをしっかり記憶に留めるために、瓦礫の記憶と一緒に暮らしていくという。その子供たちも、そうやって、瓦礫に花の絵を描いている。これは良いなぁ、この映画の精神と同じだ、長岡の森市長も、これからこの映画は東日本で上映をしていきたいとおっしゃっているので、ああ、この子達と友達になって、一緒に手を合わせて行けたらなぁ、と思いました。それで、東京に帰って、手紙を書こうと思って、その女の先生からいただいた、絵のいっぱい描いてある名刺を見ましたら、福島県福島市なになに最後が字元木。この映画の元木花ちゃんの元木と同じ字なのですね。字元木の花瓦礫だったのね。ああ、この映画は僕が創ったんじゃないよ。何か上の方にいる人が、そういう風に最初から、未来のために配置をしてくれて、その一部に僕もいたんだなということが嬉しくて。今日もこのロビーに、その南相馬の先生が創られた福島の花瓦礫を、瓦礫自身は放射線の問題とか色々なことがありますので、写真にしたものが届いていますが、しかし、皆さん、瓦礫問題が、今、色々なことで問題になっていますが、私たち芸術家や映画は、そういうことではなくて、ひょっとすると放射線もあるから危険だよと思われるこの瓦礫の中で花を描いて、元気に明るく未来を信じて生きている子供たちがいる。その子供たちと繋がることこそが、私と私たちのこの映画の役割だろうと思いますので、どうかお帰りの時に、花瓦礫を描きながら一生懸命に生きている福島の子供たちの花もどうぞ見てやってください。お願いします。ありがとうございました。」


(スバル座ロビーに展示された『花瓦礫』パネル)
以前、別の機会に、大林監督から、「本当は、花瓦礫そのものを持ち込んで展示したいのだけれども…」との話も伺いました。いま現実に福島の子供たちが手に取っているものが、「危険かもしれない」というひと言だけで簡単に片付けられて良いものなのでしょうか。そこで生活しているのは、同じ日本人、同じ人間のはずなのに。ひとりひとりのほんのちょっとの勇気と正しい知恵、瓦礫ひとつに対しても思いやる心が、今こそ必要だとりょうは思います。
(りょう)
つづく
「この長岡の花火を、私は2009年に観たのです。それも、長岡の友達から、「花火を観に来ないか。」と誘われて。大きな花火だとは聞いていたけれども、所詮イベント花火で、観光客集めの、土日にボンと上げて終わりだろう、と。ただ、友達に逢うのも良いかなと思って行ったのです。行って、あの1キロの幅の信濃川が夕暮れになって、群青色という美しい日本の空色になって、ああ、こんな日本の黄昏が、ここにはまだ残っていたのだな、と思っていたら、花火がドーンと上がって、じわーっと消えてゆくのです。涙が出ちゃった。横を見ると、うちのパートナーの恭子さんも涙を流していて、「何やら花火を観て涙が出るよ。」って言ったら、「まるで映画みたいね。」と。映画がそうでしょう。富司さんや夏希ちゃんの今日の素敵なファッションやメイクは、目で見えますよね。でも、それだけでは感動しませんよね。皆さんが感動されるのは、富司さんや夏希ちゃんの心の中が、魂が見えたからでしょう。そんなものは、3DでもCGでも見えませんよね。それは、やはり皆さんの想像力が、心を映してしまう。だから涙が出る。この花火も、消えた後の夜空に、です。次の花火を早く上げろ、というのがイベント花火だけれど、その暗闇の中に、先ほどの群青色がちょっと暗くなったかな、なんて思っているうちに、涙が出てきた。この花火には、映画と同じで心が見える。それで、横にいた森民夫市長に、「市長さん、この長岡の花火には、魂が、心がありますよね」と、冗談のように聞いてみました。真面目に聞いたら笑われますからね。そしたら、森民夫さんが真面目な顔で、「監督、見えましたか。実はこの花火は…」ということで、ちょうど皆さんにいまご覧いただいた長岡花火の物語を、私は初めてそこで知って、そして、更にその長岡の花火という私の大好きだった絵を描かれた山下清さんが、「世界中の爆弾を花火に変えて打ち上げたら、世界から戦争がなくなるのになぁ。」、あっ、この言葉だ、と。私は、映像から映画を創ろうとは思わないのです。良い言葉と出逢ったときに、この言葉を映画にして伝えたいな、と。つまり、言葉は魂ですから、映像ではないですから、その言葉が聞こえるように、映像を配置して、映画を創る。だから、そのときに決めたのです。」
と、『この空の花~長岡花火物語』の誕生秘話を語られます。

(山下清画伯の『長岡花火』ちぎり絵)
そして、先日の長岡での初日舞台挨拶でもお話しをいただいた東日本大震災被災者の話へと続きます。
「それから、3.11にあって、さあ、これから私たちは、未来の日本をどうするか、と。みんなが今まで正しいと思っていたことも、反省し直さなくてはならない。私たちも表現能力を失いました。もう映画なんかできないよ、と。正やんだって、無力だったよね。みんなが、そう。絵描きさんは絵が描けなくなるし、僕たちも心のスクリーンが真っ白になりました。ただ、そのときに、日本で素敵な表現をしていた人たちがいました。東日本の被災者の方たち。ご自身が一番辛い悲しい苦しいのに、自分よりももっと辛い悲しい苦しい人たちがいるから、私は、愚痴は言いません、めげません。その人たちの心を思いやって、一緒に頑張ります。更には、たくさん支援を受けたから、きちんと恩返しができるように、我が古里を復興させます、と。感謝、我慢、思いやる、未来を手繰り寄せて平和にしようという再生の勇気、知恵。これに世界中の人がびっくりしたでしょう。更に、僕たち日本人も、忘れていたよ、あのような魂を。僕たち日本人、みんなそうだったよね。復興とは、と思ったときに、今日皆さんにご覧いただいたこの映画の精神、長岡花火の精神は、あの戊辰戦争で、日本が新政府をつくって、世界に門戸を開いていった、あのときから長岡は負けているのですね。そのときの復興とは、「物やお金じゃない、この里で暮らす子供たちが、この里に誇りを持って、大人たちを信頼して、共に未来の平和を手繰り寄せる力を持つ、そういう子供たちを育てることこそが復興である」と。ああ、まさにこれからの日本の再生はそれではないか、と。日本人が美しくなること、そのことを東日本の人たちから学んだのだから、と思ったときに、この映画は今こそ創るべきだ、と。実は、長岡花火も自粛しようということになっていたのです。でも、あの中越地震のときに、何よりも私たちはこの花火を上げた。1円のお金もなかった。だけれども、この花火を上げることで、この里の子供たちが、この里に勇気を持って、誇りを持って、未来を創る。その子供たちのために、明日のために、花火を上げました。映画だって花火と同じように、一見無駄なものだけれども、花火の心が永遠に焼き付くように、映画の想いもきっと永遠に焼き付く大切なものだから、映画も打ち上げます、とおっしゃってくれて。そして、花火も映画も一緒になって2011年8月1日を期して、打ち上げた。同じ日に、石巻でも、長岡花火が打ち上げられていたというね。」
『米百俵』の精神は、過去・現在・そして未来へ。
話題は、東日本大震災の被災地である福島の子供たちのある取り組みに-
「実は、私は3月11日のとき九州にいて、「監督ついていたね、もう九州から出てこない方が良いよ、東京だって危ないから」と聞いたときに、「冗談じゃない、俺は福島に行く」と決めたのですが、そのとき私は73歳でした。ただ、この爺さんが行っても何の役にも立たないのです。僕は代々医者の息子だったから、医者だったら役に立つのになぁ、と思ったのです。力仕事は駄目ですし。それに、劇映画の監督が、被災地に行くことは良くないことなのです。劇映画の監督というのは、これは良い画だと思ってしまうのです。あの被災地に行って、これは良い画だぞ、なんて思ったら、バチが当たります。だから、行かないと決めたのです。その代わり、心を一生懸命に寄せて、東日本と一緒に生きようと思いました。そして、3月13日か14日だったかな、震災のすぐ後です。南相馬の少年、高校生が、「今まで一生懸命とか、頑張るとかいうのは、ダサくて嫌だったけど」と。それはそうですよ。一生懸命にやったって、頑張ったって、ロクな明日は来ないということは、大人が造ったいまの社会はそうですからね。子供たちにそう言われるのは、大人の我々が駄目だから。しかし、その少年が、「これからは僕が一生懸命に頑張って、この古里を復興させます」という言葉を僕は新聞で読んだのです。そこからシナリオを全部書き直しました。そして、皆さんにご覧いただいた映画にも南相馬の少年に出演してもらって。そして、映画の撮影が終わって、震災から1年後です、ようやく南相馬に行きました。南相馬の小学校、中学校、高等学校は、大きなグラウンドですが、野球もサッカーもできないのだそうです。なぜならば、使えるのが1時間だから、ゲームが終わらないのですね。そして、そこの高校の女の先生が、福島の方に引っ越されたのです。そのとき被災地に咲いていた、一本の桜の枝に咲いた花、こんな小さなか弱い花だって、ちゃんと咲くんだと。私たち人間も、ここでちゃんと咲こうということで、その先生は、壊れた校舎の瓦礫を自分で集めて、自分で洗われて、生徒たちと一緒に、瓦礫に桜の花の絵を描いたのです。花の絵なんて描いたこともない男の子たちまでが。そして、瓦礫というのは本来が校舎ですから、そこには、かつてあった壁画の色だとか色々なものがあって、想い出がいっぱい詰まっているのです。そこで、僕は、山古志の人たちと同じだと思ったのです。つまり、大人は瓦礫を片付ければそれで復興だと思うのですが、山古志の人もそうでしたね、瓦礫を残して、瓦礫の痛みを記憶して、そして、その痛みや皆さんからもらった支援に対する感謝の気持ちをしっかり記憶に留めるために、瓦礫の記憶と一緒に暮らしていくという。その子供たちも、そうやって、瓦礫に花の絵を描いている。これは良いなぁ、この映画の精神と同じだ、長岡の森市長も、これからこの映画は東日本で上映をしていきたいとおっしゃっているので、ああ、この子達と友達になって、一緒に手を合わせて行けたらなぁ、と思いました。それで、東京に帰って、手紙を書こうと思って、その女の先生からいただいた、絵のいっぱい描いてある名刺を見ましたら、福島県福島市なになに最後が字元木。この映画の元木花ちゃんの元木と同じ字なのですね。字元木の花瓦礫だったのね。ああ、この映画は僕が創ったんじゃないよ。何か上の方にいる人が、そういう風に最初から、未来のために配置をしてくれて、その一部に僕もいたんだなということが嬉しくて。今日もこのロビーに、その南相馬の先生が創られた福島の花瓦礫を、瓦礫自身は放射線の問題とか色々なことがありますので、写真にしたものが届いていますが、しかし、皆さん、瓦礫問題が、今、色々なことで問題になっていますが、私たち芸術家や映画は、そういうことではなくて、ひょっとすると放射線もあるから危険だよと思われるこの瓦礫の中で花を描いて、元気に明るく未来を信じて生きている子供たちがいる。その子供たちと繋がることこそが、私と私たちのこの映画の役割だろうと思いますので、どうかお帰りの時に、花瓦礫を描きながら一生懸命に生きている福島の子供たちの花もどうぞ見てやってください。お願いします。ありがとうございました。」


(スバル座ロビーに展示された『花瓦礫』パネル)
以前、別の機会に、大林監督から、「本当は、花瓦礫そのものを持ち込んで展示したいのだけれども…」との話も伺いました。いま現実に福島の子供たちが手に取っているものが、「危険かもしれない」というひと言だけで簡単に片付けられて良いものなのでしょうか。そこで生活しているのは、同じ日本人、同じ人間のはずなのに。ひとりひとりのほんのちょっとの勇気と正しい知恵、瓦礫ひとつに対しても思いやる心が、今こそ必要だとりょうは思います。
(りょう)
つづく
高田世界館さんにて映画『転校生』上映
『野のなななのか』TAMA映画賞・最優秀作品賞受賞!
エキストラ虎の巻
おめでとう☆彡
映画『月とキャベツ』上映&トークイベント開催決定!
銀映館ふたたび~世界館で『シグナル-月曜日のルカ』上映!
『野のなななのか』TAMA映画賞・最優秀作品賞受賞!
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2012年06月14日 Posted byひがしざわ at 08:00 │Comments(0) │未来に紡ぐ
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