長岡百花繚乱の紀~『うえだ城下町映画祭・親子トーク』⑥

 『映画永遠(とは)?』と題しての、楽しいゲストトークの時間も、タイトルのように永遠という訳にはいきません。トーク自体は、ここで終わりとなりましたが、まだまだ話し足りない大林監督。休憩時間を挟み、この後の『この空の花~長岡花火物語』の上映前にも、特別に舞台挨拶が行われることとなりました。

 「とても長い映画ですので、今のうちにトイレに行っておいてください。」と話す大林監督。

 休憩時間の途中で、司会の方が登壇する前に、待ちきれないとばかりにステージ上に出てこられた大林監督。
 「はーい。映画が始まる時間ですが、スクリーンにお尻を向けてごめんね。」と、まずは、スクリーンに声をかけられます。

 「2011年の3月11日ですが、想い出しませんか。新聞のテレビ欄もこうだった。真っ白だった。皆さんの心の中も、こうだった。真っ白だった。ここに映像が映っているときは、なんて幸せな日常なんだな、と。そんな幸せが全くなくなってしまったのが3月11日でしたね。山田洋次さんから電話をもらって、「映画は1年創れません」と話された。出来上がった映画を上映するのもやめようという時期でしたが、僕はそのときに、『この空の花~長岡花火物語』というこの映画だけは、今こそ創ろうと決めて創った映画です。だから、これは3・11の心が空白な状態、しかし、それが実は大変貴重な時間でもありました。なぜならば、誰もが表現する力を失った。今まで信じていたことが、全部間違いだったのではないか。いやいや、どうしたら良いか分からなかったときに、東日本の被災地の方々だけが、見事な表現をしていた。自分が一番、辛い、苦しい、悲しいのに、自分より、辛い、苦しい、悲しい人がいるから、その人たちのために、手を差し伸べよう。色々な支援を頂いたから、恩返しができるように、この古里を復興させよう。この、感謝、我慢、思い遣る。未来に絶望せず、未来を幸せな世にしようという勇気を持つ。これは、日本人が古来より持っていた素晴らしい賢い表現でしたね。それを僕たちはいつの間にか、モノと金との復興の中で、忘れてしまった。もういい加減、これからは美しい人間になろう。創り出す音楽も絵も映画も、より賢く美しいものになろうと、皆が決心した。そういう貴重な体験をこそ画こう、と。そのときに、僕は長岡というまちの志と出逢い、長岡というまちの志をこの映画にしました。しかしながら、これは風化させないための映画ですから、ピカソのゲルニカを思ってください。ピカソのゲルニカというのは、スペインのゲルニカという小さなまちが、ドイツ軍の攻撃で丸焼けになって、多くの被災者が出たという、戦争の記録なのですが、あれをもし、写実的にリアルに画いたら、もう見たくはない、忘れたい、ということで、風化するでしょう。しかも、スペインの小さな村のことですので、我々には全く関係がない。しかし、ピカソは、あれを芸術という、不思議で、面白くて、美しくさえあるという、そういう表現で描いたからこそ、今でも、小さな子供でも、ピカソのゲルニカの絵の前に立つと、「このお婆ちゃんの顔は、どうしてこんなに歪んで、どうしてこんな顔をしているの。えっ、戦争というものがあったの? それで、殺されたの? それで、こんなに悲しい顔をしているの? 嫌だなぁ、恐ろしいなぁ。では、戦争というものがない世の中を創ろう。」という、未来を平和にしようということを、子供が考え始めることに役立つ。そのための過去の辛い想いを風化させないということが、実は、芸術のジャーナリズムなのです。『この空の花~長岡花火物語』もそういう映画ですから、ピカソのゲルニカのように、大人の常識で考えたら、ちょっと分かりづらい、変だな、不思議だな。でも、面白くて、美しいから、何だか観ているうちに、何かここから考えることが生まれるなぁ、というものを創っています。この映画を観た4歳の子供が、お父さんと一緒に連れて来られて、観終わった後に、お父さんにこう言ったそうです。「お父さん、僕、いま生きてるの?」。この映画は、このひと言で十分です。そこから、その少年が、何を考えていくのかということが、未来の平和を創るのです。そんな訳で、ゲルニカに付き合うつもりで、この映画をご覧くだされば、と思います。さて、ここで、いま話した、長岡の森民夫市長からのメッセージを持って、市長の代理で長岡の観光課長さんがいらしています。」


(ブースには、作品と常に共にある福島花瓦礫パネルの展示も)

 大林監督から「チャーミー」と呼ばれて、登壇された長岡市観光課長さんから、長岡市長のメッセージが紹介されます。

 「上田市の皆さんからは、平成16年10月の中越大震災と昨年平成23年7月の新潟福島豪雨の際、復興に向け、長岡市に職員を派遣いただいたこと、まずもって感謝申し上げます。本日、上田市民の皆さんに、映画『この空の花~長岡花火物語』をご覧いただけることを、大変、嬉しく思っております。この映画は、長岡の市民の想い、歴史、恒久平和の願いを、大林監督の手で、セミドキュメンタリーとして見事に取り込んでいただいた作品でございます。大林監督には、市民を代表して感謝申し上げます。題名にもなっている長岡花火は、イベントではなく平和への願いを込めて打ち上げている日本で唯一の花火でございます。映画の中にも出てまいりますが、昨年8月のクランクイン直前に長岡は未曽有の水害に見舞われ、世界に誇る大花火大会の開催も危ぶまれたところでございます。しかし、過去の2度の戦災や中越大震災など、幾多の困難を乗り越えて来た、不撓不屈の精神で、会場を復旧し、予定通り花火を打ち上げることができました。大林監督には、このエピソードも急遽加えていただき、長岡の心を随所に織り込んでいただいたところでございます。上田市の皆さんには、この映画を通して、長岡の心に触れていただけることは、この上ない喜びでございます。そして、来年、毎年そうなのですが、8月2日・3日、長岡まつり大花火大会がございます。ぜひ長岡にお越しいただき、長岡花火の想いを身体で肌で感じていただければと思っております。今日は、大変どうもありがとうございます。」

 続いて、母袋上田市長から、大林監督に花束が贈呈されました。

 「嬉しいなぁ。猿飛佐助として長岡市民を代表して、頂戴いたします。映画が、こういう風にふたつの市を結びつける。いやいや、素晴らしいですね。ありがとうございます。」と嬉しそうに花束を受け取る大林監督。

 上田市長からもひと言いただきます。

 「本日は、大勢の方に、うえだ城下町映画祭にお越しいただきました。まずは、熱く御礼申し上げます。大林監督には、上田観光大使をお願いしているということの意味は、色々とありますが、本日はそれについては語りませんけれども、昨年、全国のフィルムコミッションの総会が、この上田であり、そのゲストとして監督にお越しいただきました。その際、ある席で隣同士になって、3・11を迎える前には、もう映画の脚本が出来ていたんだ、と。そして、ロケに入るスケジュールも組んであったのだけれども、あのような震災が起きてしまった。先ほどの山田洋次監督のお話しではありませんけれども、自分としては、このままで良いのかという悶々とした気持ちを私にお話しをされていました。それの後、ロケをするという意思表示がありまして、さて、どのような映画になるのかと、非常に関心を持っていたのですが、封切をされたというニュースは流れたけれども、上田でも長野県内の映画館でも、どこからもやるよというニュースが流れてこない。どうしてかな、とちょっと意味が分からなかったのですが、たまたま、東京に行く用事があって、その際、東京のスカラ座さんで上映しているということで、時間を割いて、観に行きました。内容については言いませんが、色々と感じるところが私も多々ありました。涙を流されている方もいらっしゃいました。たくさん感じたものですから、今日、監督とお話しをさせていただき、また映画の方も上映をさせていただくということで、嬉しいです。これからもぜひご活躍いただきたいと思います。」


(花束を贈呈する上田市長)

 上田市長の言葉に、大林監督からは、
 「東京の上映館まで、母袋市長がわざわざ観に来てくださいました。この映画について、ひと言だけ説明をしますと、自主制作の映画ですから、宣伝費も配給会社もございません。恭子さんを初め、私たちが自分でフィルムを担いで、全国を回っています。ここでやりたいという方がいらっしゃれば、そこを目がけて行く。そういうことが、ツイッターなどでどんどん広がっていって、そして、母袋市長が東京でご覧になってくださって、実行委員の方たちの中で、どこかで一生懸命に頑張って、東京まで出向いて観てくださって、今日の上田での上映が決まりました。この映画と一緒に、猿飛佐助、上田に参上することが出来て、大変幸せでございます、皆さん、本当にありがとうございます。」

 まるで、『転校生~さよならあなた』のふる里、長野に向けてエールを贈られているかのような言葉の数々に、会場に駆け付けた“チーム長野”一同、心打たれました。
 大林監督には、退場される際に、舞台上から「おっ、いつもの3人組もいらしていたのね。」と声をかけていただきました。

 フィルムコミッションの最大の役割は、“まち護り”にある。
 映画とまちに携わる者として、文化という市民共通の財産を高めていくことを第一の目的として、まちを大切にしていきたい。そのように決意した上田、そして深谷での対談となりました。



(りょう)  


2013年01月20日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)未来に紡ぐ

長岡百花繚乱の紀~『うえだ城下町映画祭・親子トーク』⑤

 「今のお話しをお聴きになって、千茱萸さんには、毎年この映画祭のために上田に来ていただいていますが、いかがでしょうか。」と聞かれた千茱萸さん。

 「映画は、昨年の3・11のこともありますし、映画は生きていく日々の暮らしの中で、本当に必要なものなのかな、ということは、やはり、少し考えたことはありましたね。それでも、私は監督の映画の手伝いをしたり、ずっと映画の中で暮らしてきたので、特にそう思ってしまったのですが、震災後というのは、映画館などは人が集まってきて危険だからということで、一時期人が入らなくなったりとかもあったのですけれども、でも、やはり人の心の中の元気の素と言いますか、明るい明日、映画館の暗闇から一歩外に出たときに、何か新しい明るい希望を灯す力のひとつになれば、映画は本当に喜んでくれているのではないかなと思っていますし、実際に、私は今年で10回目になるのですが、自主制作映画のコンテストは10回目で、映画祭自体は16回目ということで、私も全国色々なところの映画祭に行きますけれども、この続けるということが本当に大変なのですね。やめるのは簡単なのですが。だから、私も、去年、今年と、映画祭をやめちゃうんじゃないかな、と、実は凄くドキドキしていたのですが、特に自主制作映画という、映画のビジネスということではない、お金儲け主義では全くないところで、賞金のことだけではないですけれども、副賞も美味しい上田の信州ハムですとか、美味しいものセットを、映画を創るときはお腹も空きますので、皆さんが映画を創る際に少しでもお腹の足しになればということで、こちらのスタッフの方も考えていただいているのですけれども、何か、そういう拝金主義ではない、映画の心の部分を、この上田の映画祭の方たちは、本当に考えてくださっているのだなということが、今年で10回目ということで、去年からの1年間を振り返っても、本当に、今年62本もの応募作品があったということが、こんなに大変なときに、こんなにたくさんの応募をしてくれたというのが、感動というか感謝の気持ちでいっぱいで、これは、こういうバックグラウンド、心を育てるという上田のバックグラウンドが背景としてあったからじゃないかなと思っています。」

 この言葉を受けて「今日は、映画祭のスタッフはもちろんですが、市長もお二人のお言葉を聞いて、映画祭を当分続けないといけないな、という義務感にかられていると思います。」と気を引き締める司会者。

 「継続するということが一番大事なのです。やめてしまうと、そこで歴史が止まりますが、それだけではない。過去になってしまうのです。これは、過去にしないで、いつまでも未来を見続けるということが大事で、今日も、私があそこから見ていたら、若い監督さんが表彰を受けていましたが、この人たちが未来の映画を創るのです。未来の映画の歴史を産む人たちなのです。映画の物語に立っているということですね。逆に、今日、この場に立った人たちは、そのことから、「よし、未来の世界の映画は僕がやる」という自覚をもってほしいし、同時に上田の皆さんは、未来につながる人たちを送り出したということです。僕なんかは、ドキドキしながら見ていました。僕はお爺ちゃんだから、頑張ってもあと30年しかないなぁ、と(笑)。新藤監督は、100歳まででしたから、そこまでは目標にしなくてはならない。そうすると、彼らはあと80年は映画を創れるなぁ、と。80年もこれから映画を創ったら、凄いことになりますよ。あなた方自身も、自分でもびっくりするような成長をしますよ。その第一歩が、ここから始まっているということの意味。だから持続しないといけないのですね。」

 「本当に、第一回目の自主映画祭のときは、お客様も関係者やゲストの方が多かったのですね。でも、その中に、入江監督がいて、いまは『サイタマノラッパー』という素晴らしい作品を創っているのですが、その入江君が一番最初のときで、ずらっと壇上に並んだときに、お客さんはたぶんスタッフの方が多かったのでしょうけれども、でも、そこから出発して、今は全国区でやっていて、実は、この度、今日これから上映させていただく『この空の花~長岡花火物語』がTAMA映画祭で優秀賞をいただいたのですけれども、そこでも『サイタマノラッパー』は同列で並んでいます。ここで出発した作家さんが、そうやってそこまで大きく、入江君だけに限らず、本当に色々な方がここから飛び出て行っていますので、ぜひぜひ皆さん、若い方は本当に大変なので、応援してあげていただきたいなと思います。」と付け加える千茱萸さん。



 「入江君が10年前のここで賞をもらって、この間、日本の映画監督をまとめた本が出ましたが、僕は年寄りだから、前の方のページに乗っていますけれども、入江君も同じ本に載っている。多分、いま読む読者からすれば、入江は良いことを言っているなぁ。大林というお爺ちゃんはあんなことを言っているのか、と、僕の方が脇役になっていますよ。もう、そういう時代なのだから、それがこの10年の歴史です。上田の10年の歴史で、それを作ったということは、凄いことです。今日、僕はこの会場の熱気にびっくりしました。」

 と、続けることの大切さを伝えるお二人のお言葉に

 「今日は、若い人たちにもたくさん来ていただいているので、ぜひ、いまのお二人のお言葉をエネルギーにして、80年ということですから、ずっと情熱を持ち続けていただきたいですね。」と司会者。

 続いて、この日上映された『淀川長治物語・神戸篇 サイナラ』など監督ご自身の作品を引き合いに出して-

 「今日観てくださったこの上田で撮影した『淀川長治物語・神戸篇 サイナラ』という映画も、淀川長治さんのことを画いたものですが、これは元々、テレビのドラマとして出発したものなのですね。でも、その予算ではとても創れなかった。それで、うちの恭子さんが、これは自主映画で創ってしまって、創った映画をテレビでオンエアしてもらいましょうよ、と、自主映画ということで、こんな機械1台で編集したのですよ。CGも何も使うお金なんてありませんからね。しかも、合成用のキャメラなんてないから、揺れているのね。でも、これはプロの世界では、揺れているぞ、と言われて使えない。テレビ局だったら、そんなものは使わせてもらえないけれども、淀川さんが現役だったころにあった機材で創ろうということをひとつの思想としている訳で、これは自主映画だからできるのですね。だから、上田にロケに来て、合成がたくさんあるのだけれども、お金がないから、ベニヤ板にグリーンを塗って、それをその辺にまき散らしてね、プロの方だったらこんなものは撮りませんよ、とプロのカメラマンだったら言うだろうというような状況の中で、あれだけのものを創ってしまう。『HOUSE ハウス』がそうでしょう。今日、この後上映する『この空の花~長岡花火物語』というのも、自主映画です。いま話したTAMA映画祭や、嬉しいのは、木下惠介監督が今年で生誕100年ですが、今度、はままつ映画祭で木下さんが戦争中に創られた『陸軍』という映画と『この空の花~長岡花火物語』を2本立てで上映してくださる。あるいは、文科省が日本映画の1本として韓国で上映をしてくださる。この作品が、そのような評価を受けてきている訳ですが、これも自主映画です。もちろん、テレビ局や色々なところも協力してくれていますが、それだけでは成り立ちません。長岡というまちの市民が、老後のためにと蓄えておいたお金までも投じてくれた。だから、長岡市民の自主映画であり、それをうちの恭子さんがプロデュースするという。我々の家族だけでやっている小さな自主映画のプロダクションが手伝って、そして、それを上映する。そうすると、今日も長岡の市長代理の人が、ここに来ちゃっているという。そう言えば、長岡の森民夫市長が、いま全国市長会の会長さんをやられていて、当時の母袋市長が副会長をされていましたね。それに『22才の別れ』では、前市長会会長の大分県臼杵市の後藤市長が出演しているのですね。別に、私はそのようなことを組み合わせてはいませんよ。私が創りたい映画を、創りたいように創ったら、そのまちの市長さんが、あるいは、そういう市長さんを選んだ市民の人たちが、みんな素晴らしい人たちだということを映画が証明してくれるということですね。」


(会場内には、『淀川長治物語・神戸篇 サイナラ』のロケ当時を紹介するコーナーもありました。中には、今や大女優となった宮崎あおいさんがまだ中学生だったころの懐かしい写真も。)

 「今日は、大林宣彦監督の映画を『淀川長治物語・神戸篇 サイナラ』、『HOUSE ハウス』、そして最新作の『この空の花~長岡花火物語』ということですから、今日いらっしゃった皆さんは、色々とターニングポイントとなるような映画を全て観られるということで、本当に幸運ですね。」と話す司会者。

 「特に、自主映画ということで、私たちは自主映画のベテランですから、いまは企業の映画だから企業の映画を創るという時代でもないですしね。山田洋次さんという方は、いま日本でほとんど一人か二人しか残っていない映画監督ですね。松竹の映画監督ですが、僕らは、そういう意味での映画監督ではないですから。その山田洋次さんが、松竹の正月映画として予定をされていた『東京家族』という映画ですが、あの3・11のときに私は洋次さんから電話をもらいました。「大林さん、3・11前に描いたシナリオでそのまま映画を創ったらダメですよね。僕はこれをやめて、1年休んで、それから創ります。実は、『東京家族』という物語を、3・11以降にもう一度見直したのです。そうしたら、あれは全カットに戦争が映っていました。小津安二郎さんは、戦争の中で映画を創ったり断念してきたりしてきた先輩だから、全部そういう想いが映っているのです。僕らは、そういうことには気付かない。山田さんは、3・11以降にそれに気が付かれて、「大林さん、僕が今度創る『東京家族』には、全カットに放射線が映っていなくてはいけませんね。そのために、僕は1年待ちますよ。」と。松竹の映画監督である山田洋次さんも、そういう自主映画の精神で撮られたから、今度の『東京家族』は、今までの山田洋次作品を超える素晴らしい作品になっているのではないかと思っています。制作が松竹ではないですよね。東京家族製作委員会となっていますよね。黒澤さんだって、東宝を辞めて晩年は自主映画になったでしょう。新藤兼人さんも、松竹を辞めて、自主映画だからこそ、『1枚のハガキ』のような自由奔放な芸術性の高い作品を創られた。そこをいくと、今日デビューされた人たちは、最初から自主映画という商売人ではなく芸術家である訳ですから。さて、芸術とは何か。それは、今日ここに来るときに僕が見た紅葉です。「芸術の秋だね」と僕が言ったとき、恭子さんが、「秋が芸術なのよね」と言いました。雲が綺麗でしたが、雲は気象とか色々なところからできるものだけれども、僕たちから見ると、象の形をしていたり、麒麟の形をしていたり、芸術なのですね。「雲は天才である」と言いましたね。つまり、より人間的であると言うことが芸術なのですね。そのためにも、これからデビューする映画作家には、風のため、名誉のためではなく、人間のため、世界の未来の平和のために、映画を創っていくということを決心するのが、3・11以降の私たちの努めだというように思います。」と大林監督。



(りょう)

つづく  


2013年01月19日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)未来に紡ぐ

長岡百花繚乱の紀~『うえだ城下町映画祭・親子トーク』④

 続けて、話題は、“映画のまち”上田の魅力について。
 「上田でロケをしている作品はたくさんあるのですが、監督にとって、上田のまちの魅力というのは、どういうところにあるのでしょうか。」と聞かれた大林監督は、


(上田では、『淀川長治物語・神戸篇 サイナラ』、『告別』、『理由』、『転校生~さよならあなた』を撮られている大林監督)

 「ここは映画のまちですね。今日は市長さんもいらしている。ここに大女優さんが来るというのならば別ですが、映画館も色々ある中で、しかも、このような自主制作映画の無名な人たちの作品をやる場所に、市長さんが座っているというのは、とんでもないことで、これが映画のまちなのです。つまり、市長さんは市民が選んだ方なので、市民が一体化して、こういう映画を育てていこう、と。フィルムコミッションというものが全国にあって、どこも、お金を持ったスターがたくさん出ている映画を呼んで、ちょっとうちにもお金を落としてもらいたい、ということで呼ぶのですが、上田は昔からロケが多い所で、フィルムコミッションなんか作る必要がないところですよね。でも、フィルムコミッションを作ったと市長さんがおっしゃるので、「上田でフィルムコミッションはいらないでしょう」と言ったら、市長さんがおっしゃいましたね。内緒話をしても良いですか、「フィルムコミッションにしたことで、古いものを壊さないということができるのです。上田も、僕たち古い映画人にとって良いものがたくさんあったのだけれども、やはり時代の中で、古いものは不便だし汚らしいから壊していこうという、日本全体の文明化の流れの中で、それに対して、フィルムコミッションにしたことで古いものが護れるのですよ」と。ああ、映画の里の市長さんだな、と。フィルムコミッションが、素晴らしい志を持っている。映画と言うのは、志を持っていないと生まれないですから、だからこそ、職員さんが出迎えてもくれない、こういう素晴らしい映画祭があるのですね。この間、火事になった浦里小学校も、全国の多くの映画人から愛されて、私もあそこで2度、3度とロケをさせていただき、想い入れのあるところなのですが、あのような古い学校を残して、しかも、現役でしょう。これが映画なのです。古いものを残して、骨董品として愛でるのではない。古くはないのですね。あれは、新しいのです。」

 と、話は、昨年9月に焼失した浦里小学校に-



 「子供たちがそこで授業を受けたり、廊下を雑巾がけしたりと、きちんとやっていました。」と司会者。

 「私もロケに行って、「ここは夏は暑いし、冬は寒いのではないですか」と聞いたら、先生が、「子ども達にとって一番大事なのは、夏の暑さでしっかり汗をかく。冬の寒さであかぎれやしもやけができる。そういうことを体験することが、丈夫な子供を育てるので、学校にとって一番必要なことです。」と。これには恐れ入りました。映画の志ですよ。映画は、そういうものを画く文化だから、そういう人間の素晴らしい賢い生き方をちゃんと護ろうと。それを、便利で快適で、暑さも寒さもないところで過ごす方が、楽で良いやというのは、僕の様な老人になってからの話で、でも、僕はベテランの子供だから、そう思わないですからね (笑)。いまでも暑さも寒さも大丈夫。子供は、暑さ寒さが大好きだから、しかも、そこから学ぶことがたくさんあるのだから、そういう意味で、上田は、志自体が映画のまちなのです。上田のまちの様な映画を創れば、映画もまた志のある素晴らしい映画になると、若い人たちには思ってほしいですね。」


(会場には、これまでの上田ロケと浦里小学校を紹介した展示会場も。パネルには、「2001年に信州上田フィルムコミッションが設立される2年前、99年に上田市の企画課から「信州上田ロケ地ガイド」という冊子が発行された。それが、映像製作関係者に送付された3日後、さっそく上田にやって来たロケ隊があった。大林宣彦監督の一行である。その時の作品が、今回の映画祭でも上映される2000年の『淀川長治物語・神戸篇 サイナラ』だった。その後、2001年の『告白』、2004年の『理由』、2007年の『転校生~さよならあなた』と、大林作品のロケ地として上田が登場することとなる。そして、『淀川長治物語・神戸篇 サイナラ』、『告白』、『理由』の3本に使われていたのが、この9月5日深夜の火災で本校舎と北校舎が消失してしまった浦野の浦里小学校だった。浦里小学校は、『宮沢賢治 その愛』他の神山征二郎監督作品や、最近では『ゼロの焦点』、『私は貝になりたい』などの話題作、テレビドラマでは『南極大陸』と、昔からさまざまな映画やドラマに使われて来た。そこで学んでいた児童や卒業生、校舎を誇りにしていた地域の人びとにとっては勿論大きな悲しい出来事だったが、大林監督がNHKのインタビューの中で「あれは新しくセットを建ててつくれるものじゃないんです」と答えているとおり、日本の映像関係者たちにとっても貴重な財産がひとつ失われてしまったという喪失感は大きなものがあるだろう。ロケ地としての風景や建築物は、意識して守っていかなければ、たちまち失われていくものであることを、心にとめておかなければならないだろう。」と書かれていました。)

(りょう)

つづく  


2013年01月18日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)未来に紡ぐ

長岡百花繚乱の紀~『うえだ城下町映画祭・親子トーク』③

 ニューヨークでの上映について、大林監督が続けます。
 「ちょっとびっくりするような話なのですが、今日の皆さんにもそのことを伝えたいのですが、つまり50年前に僕が8ミリで創っている時代というのは、8ミリなんて映画界は見向きもしない。アマチュアのおもちゃであって、しかも、そのときに僕と京都にいた高林陽一くんとそれから東京の飯村隆彦くんと、この3人だけが8ミリでちゃんとした作品を創ろうとしていたのですね。たった3人しかいなかったのです。それで、8ミリを撮ったからと言って、お金になる訳でもなく、将来映画監督になる訳でもない。なんであんなに夢中になって8ミリを撮っていたんだろうね、と、今日も恭子さんと言っていたのですが、やはり自分でやるということを表現したいということだけで、一生懸命に創っていた。自分を表現する訳ですから、他人の真似なんかはしやしない。映画ファンとしては、ジョン・フォードや黒澤明さんが大好きでね。でも、第二のジョン・フォードや、第二の黒澤じゃ駄目だ。第一の大林でなければいかん、ということで、誰もやらないことばかりをやっていたのです。そうしたら、今度ニューヨークで半世紀も前の作品をやってくれる。なぜだろうと思ったら、その頃、そんなものを創っていた人間が誰もいないから、結局、映画の歴史になったから、それをやるんだ、と。この間、手塚治虫という漫画家の、大変偉い方なのだけれども、この人も無名の頃があって、日本が敗戦直後に描いたその人の漫画が見つかったのですね。それに対して、やなせたかしさんが、「手塚さんの無名時代のその漫画は、後の手塚さんの弟子である、石ノ森章太郎さんやその他の人たちに比べて、とっても下手だ。だけど、下手なのは当たり前であって、手塚治虫には手塚治虫という見本がなかったのだから。」と。これですよ。だから、若い人は、見本があるモノを創ってはダメ。見本のない、自分が見本となるようなモノを目指せば、見本がないのだから下手は当然です。だけれども、それを超えて歴史を創るのね。それが、若い人に贈りたい言葉です。いつも言うのですが、「他人のように上手くやるより、自分らしく失敗しなさい。」と。成功例は、いくらでもあるのです。黒澤みたいだなぁ、小津みたいだなぁ、と。でも、それは、第二か第三の黒澤や小津にしかならない。失敗というのは、成功例がないから誰も認めてくれないけれども、時間がたてば、段々とそれが価値を持ってくる。手塚治虫さんもそうだったし。あなたとも、昨年、招待されてバージニアに行きましたね。」


(映画祭会場となった上田文化会館)

 これを受けて、千茱萸さんから、アメリカ上映のエピソードが披露されます。
 「今日、お昼に『HOUSE ハウス』という映画の上映がありましたが、監督がいま言ったのは、3年前ぐらいでしたか、急にニューヨークで映画を紹介している人たちから、なぜか私のところのメールを見つけて、コンタクトを取ってきてくださって、「『HOUSE ハウス』という映画を知っているか」と。「知っているも何も、35年前に私が原案を担当させていただいたのですけれども」と。「35年も前の映画というのは本当か。これは、新しい映画ではないのですか」と。つまり、ニューヨークのプロデューサーの人が、『HOUSE ハウス』をたまたま観て、いまの黒澤清監督とか北野武監督などの次に続く、若い素晴らしい作家がこの映画を創ったのではないか。新しい才能だということで、連絡をしてきてくださったようなのですが、「いや創ったのは、もういまは70歳を超えた監督で、創ったときは30代前半だったけれども、かれこれ今は70歳を過ぎている監督が創ったものですよ」と言ったら、向こうは「えーっ」という話になって、そこから、ぜひ今の若い人たちに、今はCGなどが主になって、海は本当に海みたいに、本物以上に本物っぽくなってしまいましたが、そういう映像の中で育ってきた若い世代の人たちが、『HOUSE ハウス』のような、切り抜いたような手創りだったり、切り貼りをしているような合成のない時代の合成に驚いてしまったと。それで、監督と私を、アメリカで2番目に古いオックスフォードの大学だったのですが、そこに二人を招いていただいて、『スーパーナチュラルフィルムフェスティバル』というのですが、そこで上映をさせていただきました。」


(自身、今回初めての鑑賞となる『HOUSE ハウス』でしたが、シーン・シーンで、りょうが小学生のとき児童館での上映会で観たことがあるようなデジャブが…)

 「そのとき、若い人から、「あなたのようなお年寄りの監督が、どうして、こんな若々しい映画を創れるのですか」と言われたので、僕は答えました。「僕はお年寄りで、昔の映画は全部観ている。映画の歴史は100年の歴史だから、映画が発明されてから観られる作品は全部観て来たよ。全部観たから、そのどれにも似ていない映画を創ったから新しいのだよ。だから、君たちも古典を観なさい。」と言いました。新しいモノばかりを観ていたら、新しいモノはできないんだね。本当に幸せなことは、映画の歴史って、100年ぐらいですから、私の世代などは全部観てきているんですよ。少なくとも1960年代までの観られる映画は全部観ています。それで、どれにも似ない映画を創ろうと。この『HOUSE ハウス』が、日本の商業映画の中で、つまり、映画監督ではない、映画監督と言うのは、商業映画の会社に就職した社員ですから、そうではない人間が、初めて商業映画の東宝という会社のスタジオで撮ったのです。日本の商業映画で、誰も若い人が映画を観なくなった時期があって、東宝さんが困って、それで大林君に作品を撮って欲しい、と。でも、2年かかりました。組合があって、外の人間は入れないですから。とうとう2年が経ったところで、初めて東宝に入って日本映画を創るのだったら、今まで誰もやらなかった、小津さんや黒澤さんが大好きで、尊敬もしているけれども、小津や黒澤が、「こんなものは映画じゃないぞ」と言うようなものを創らなくてはいかん、と想って創りました。これも、若い人に言いたいのですが、芸術というモノは、死後100年経ってからでないと評価してもらえないものなのです。それぐらい新しいことをやるのだから、すぐに理解されるわけではない。ただ、『HOUSE ハウス』は100年経たなくて、30年で世界の人が理解してくれた。段々とサイクルが早くなっているから、とにかく初めてのことをやってごらん。それが映画の歴史に名を残す。今日観させてもらった映画も、そういう意味で、照明が良かったね。暗くて、これはライトを使っていないのかなとも思ったのですが、ちゃんと照明マンが何人かいて、僕は「当てない照明マンだなぁ」と思ったのですが、それが良いんだよね。だから、最後の電車の中の光と影が、今までの映画の中で観たことがないぐらい綺麗だったよね。映画の歴史の中で、電車の中の影と言ったら、この映画を思い出すね。「上田で観たあの映画の中にあったよね」、という話にやはりなると思うのね。だから、そのことを撮った人に自覚してほしいのね。」と、会場の自主制作映画スタッフにエールを贈る大林監督です。

 司会の「今日は、この自主映画を撮ったスタッフの皆さんも聞いていると思うので、ぜひ活かしてもらいたいですね。」との言葉に、

 「キャメラの照明の当て方に、ある時代の新しさを持っていますね。それを思い切って大胆に行ってほしいと思います。まだまだプロではないから、と言ってはダメ。プロなら明るく当ててしまうのは、プロではそれをできないのですね。私の顔が真っ黒だ、と役者が怒ってしまいますから。それがプロというところのダメなところでね。皆さんは、そうではないから、役者の顔が真っ黒であっても、それが良いということで、新しい芸術が今日生まれた訳ですから、今度はそれで、東宝に入っても、黒木瞳が出てきても、顔を真っ黒に照明して、歴史に名を残してもらいたい。そういう風に思えて楽しかったですね。」と嬉しそうに話す大林監督。

(りょう)

つづく  


2013年01月17日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)未来に紡ぐ

長岡百花繚乱の紀~『うえだ城下町映画祭・親子トーク』②

 そして、映画祭は、『淀川長治物語・神戸篇 サイナラ』、『HOUSE ハウス』と上映が進み、いよいよ大林宣彦監督と大林千茱萸さんによる親娘対談です。

 この日のトークショーは、『映画永遠(とは)?』をテーマに進められました。



 まずは司会のフリーアナウンサー大岩堅一さんから、
 「今日は、大林宣彦監督の作品を朝から上映させていただいているのですが、このうえだ映画祭にゲストとしてお越しいただいたのは、確か2回目ということでしたね。何年前になりますでしょうか。」
という投げかけでスタートです。

 「今回で2回目でしたか。上田の皆さん、ただいま。」と声掛けする大林監督に、会場からは「おかえりなさい!」の声が。

 そして、初めて上田に来られた際のエピソードを披露します。
 「最初に来た時のことを、先ほども市長とお話しをしていました。私と恭子さん、プロデューサーでこの人の母ですが、車で会場に来た時に、誰もいらっしゃらないのですね。どこに行ったら良いのか分からなくて、外で20分ぐらいウロウロしていたのです。そうしたら、20~30分してから、係の方が「監督、いらっしゃっていましたか」と言って迎えに来てくれたのですが、「僕は、ずっと前から来ていましたよ!」といささかムッとして、「誰も迎えに来ないじゃないか」と言ったのですが、係の人は「私たち、今、映画を観ていましたから」と。「私たちが観たいから、映画祭をやっているのです。入口でお迎えするなんてとんでもない」と。これは、嬉しかったですね。好きな人がこうやって映画を観てくださるということで、迎えてくださった。私は、全国に行って、この話をするのですよ。「上田映画祭は、係の人が誰も迎えに来ないのです。みんな映画を観ているから。こんなに良い映画祭はないよ」と。もう10年以上も昔の初めの頃のことですよね。」

 「ありがとうございます。あちこちでどんどん言っていただいて結構です(笑)。上田のスタッフも、そういう形でお迎えしたというか、お迎えできなかったというか、そんな感じですね。」と笑いながら話す司会の方。

 続けて、「毎年、自主制作映画コンテストの審査員をやっていただいていますけれども、もう、上田はずっとですものね。」と聞かれた千茱萸さん、

 「今回で10回目になります。10回も続けるということは、本当に大変なことだと思うのですが、毎年やっていただいているので、私も真剣に自主映画を毎年100本近く観させていただいています。」

 「準備の段階から全部観ていただくというのは、本当に大変な作業だと思うのですが、いかがですか。」と聞かれて、

 「作品を観るというのは、本当に決まった時間だけですが、映画を創るのには、作品の上映時間以上に、もの凄い時間がかかっているので、その想いを、観る側も真剣に受けとめて、一所懸命に観ています。」と制作者を気遣う千茱萸さん。

 トークショー前に上映された、第十回自主制作映画コンテスト大賞作品について、「大林監督も、幼いころから自分で映画を創られていたということですが、プロの目から見て、今日のグランプリ作品はいかがでしたか。」と聞かれた大林監督、

 「先ほどのグランプリ作品(『小野寺たまこの初恋』)を観させていただいて、実は、今日は東京から恭子さんの車の運転で来たのですが、紅葉が綺麗でね。本当に幸せな良い時間を過ごしてきて、それで、私は『中山道』を想い出したのですよ。『中山道』というのは、私が50年以上も昔に8ミリで創った自主映画で、8ミリの代表作なのですが、それをふと想い出したのですね。50年前も、あれはスバルの260と言いましたか、まだ軽自動車が出始めたばかりの頃で、マイカーという言葉が出た頃です。自分の車を持って走るということが、日本ではようやく始まった頃ですから、昭和40年代ぐらいでしょうか、そんなことを想い出しましたら、今日は自主映画の会ということで、私も自主映画時代のことを想い出していたら、今日の皆さんも大学の映画研究会だったりと様々ですが、私がその頃に撮った8ミリのフィルムも、19・20・21歳という頃に創っていた映画で、実は、今度ニューヨークに行くんだよね。」


(紅葉の見ごろを迎えた上田市内)

 「そうですね。ニューヨークに『MoMA』と言う一番大きな近代美術館があるのですが、そこで監督の撮った自主映画をアーガイブで何本か上映をしていただけるという話が、海の向こうから突然やってまいりました。」と千茱萸さん

(りょう)

つづく  


2013年01月16日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)未来に紡ぐ

長岡百花繚乱の紀~『うえだ城下町映画祭・親子トーク』①

 今日1月15日は、昔の成人の日。
 新成人の皆さま、おめでとうございます☆
 りょうにとっては、かなり昔のことで、懐かしいです(笑)
 全国的に雪化粧の成人式となりましたが、未来という真っ白なキャンバスに、これから皆さんで様々な色を画いていたただければと想います。

 先日、2012年のキネマ旬報ベストテンが発表されましたね。皆さんの予想とはいかがでしたか。昨年、りょうが観た作品からは、10作品が選出されていました。
 そして、蓮佛美沙子さんも受賞した、新人賞には、この転校生日記でも何度かご紹介している『BUNGO~ささやかな欲望』にも出演をされていた、橋本愛さんと三浦貴大さんが受賞されました。日本の映画人にとって、最も価値が高いと評される映画賞の受賞は、嬉しいお知らせですね。

 また、12日(土)から、長野市では松竹相生座・ロキシーさんで上映されている『渾身 KON-SHIN』は、こちらも転校生日記で紹介をさせていただいたことがある『うん、何?』の錦織良成監督による島根県ご当地シネマ・トリロジーの三部作目。年末のブログで、昨年りょうが印象に残った2012年の作品としては名前をあげませんでしたが、それは、本公開ではなく東京国際映画祭の招待作品として鑑賞したものだったから。奇しくも平成25年は、伊勢神宮で20年に1度の式年遷宮が行われる年。日本古来に伝わる古典大相撲を題材とした心温まるとてもステキな作品ですので、2013年映画初めの1本として、ぜひ多くの皆さんにご覧いただければ幸いです。ヒロイン役の伊藤歩さんは、大林組出身でもありますね。

 ロキシーさんでの上映スケジュールは、こちらから

 さて、先日の深谷シネマレポートに続いて、新春対談の第二段ではありませんが、本日からは、昨年11月に開催された第16回うえだ城下町映画祭における大林宣彦監督と大林千茱萸さんのお二人によるトークショーの模様をご紹介させていただきます。
 上田のフィルムコミッションと言えば、先日の深谷と同様に、数多の映画人から高い評価を得ています。“映画のまち”としての高い評価は、どこから来ているのか。今回もまた、その秘密を探る大変興味深いトーク内容となりました。



 うえだ城下町映画祭について、簡単に紹介させていただくと、

 『上田では大正時代から映画の撮影が行われ、現在までその関わりが脈々と続いています。当映画祭では、上田ロケ作品をはじめとする日本映画の上映、映画関係者のゲストトーク、人材の発掘を目的とした自主制作映画コンテストなどを行うことで、映画関係者と市民の交流や、映像に携わる人材の育成を図り、上田地域における映画を中心とした映像文化の振興をさらに促します。映画祭16回目となる今年は、上田でいくつかの映画を撮影されている大林宣彦監督作品を特集、また、監督とお嬢さまで映画感想家の大林千茱萸さんをお迎えしてトークショーもおこないます。(映画祭公式ホームページより)』

 昨年、11月10日と11日の2日間開催されたうえだ城下町映画祭、初日は『大林宣彦監督作品特集』と題して、大林宣彦監督の商業映画デビュー作となった『HOUSE ハウス』、上田で撮影が行われた『淀川長治物語・神戸篇 サイナラ』、そして、監督の最新作で長野県内ではこれが初上映となる『この空の花~長岡花火物語』の上映が行われ、また、翌日は、大林宣彦監督作品ゆかりのロケ地めぐりも行われ、まさに隅から隅まで、ずず、ずいーっと大林監督の歴史を感じることができる映画祭となりました。
 『淀川長治物語・神戸篇 サイナラ』では、劇中の神戸駅も神戸の街並みも、上田市内の建物を利用してのロケだったそうです。

 開会の挨拶に立たれたうえだ城下町映画祭実行委員会委員長の品田雄吉さんは、
 「本日は御来場いただきまして、誠にありがとうございます。今年は、大林監督をゲストにお迎えし、1日目は監督作品の特集を行います。また、関連イベントとして行う「自主制作映画コンテスト」は、記念すべき10回目を迎えました。審査員を初回から務めさせていただいている大林千茱萸さんは大林監督の御息女で、ゲストトークでは親子対談が実現いたします。監督の最新作『この空の花~長岡花火物語』の上映を前に、映画製作の興味深いお話が聞かれることと思います。そして、2日目は近年の話題作を中心に上映し、市内ロケ地めぐりでは大林監督作品のロケ地を御案内いたします。ところで今年9月、映画関係者にも非常にショッキングな出来事が起きました。大正時代に建築された建物で、映画、ドラマなどの数々のロケ地となった浦里小学校の木造校舎が、全焼する不運に見舞われたのです。実行委員会でも急遽、浦里小学校で撮影された『淀川長治物語・神戸篇 サイナラ』の上映を決め、数々のロケが行われた様子をパネル展示することといたしました。多くの名作を生みだした浦里小学校と、温かくロケを受け入れてくれた地域の皆様への感謝の気持ちを、映画祭を通じてお伝えできれば幸いです。「ロケのまち上田」が、更に魅力あるまちとなることを願うとともに、開催にあたり御協賛・御後援いただいた皆様、並びに御協力をいただいた皆様に心より感謝申し上げ御挨拶とさせていただきます。」とご挨拶をされていました。

 
 数多くの映画祭で、実行委員長や顧問をされているという品田さん。夕張ファンタスティック映画祭を例に出されながら、「続けていくことが一番大変だけれども、映画祭は続けていくことに意味がある」という言葉が、とても印象的でした。


(「全てのモノが永遠にある訳ではないので、ひとつの時代の移ろいが生みだしたことなのかもしれませんが、『理由』などの大林監督作品を初め、数多くの映画作品のロケ地となった『浦里小学校』が焼失してしまったことは、返す返すも残念に思います」と語る品田氏)

(りょう)

つづく  


2013年01月15日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)未来に紡ぐ

長岡百花繚乱の紀~『深谷シネマ・トークイベント』 レポート⑤

 続いての質問が、有楽町のスバル座で作品を観終わった後に、知らない方から映画の感想や長岡花火について話しかけられたという男性の方から、「脚本と撮影台本では、どのような違いがあるのでしょうか。」という質問です。

大林:「全部で4本か5本ぐらい印刷したホンがあると思います。と言うのは、3・11の前に、一度、長岡花火の映画ということで、シナリオが完成していました。それで3・11にあったときに、とてもじゃないですが、そのままのシナリオで創る訳にはいきませんでしたから、長岡に行ってから、撮影台本を書き直すという仕事をした訳です。更に言えば、毎日シナリオは書き変えていました。この映画は、ジャーナリズムですから、その日の新聞を読めばまた違ってくるし、同じ映画でも、昨日観るのと今日観るのとでは、全く違ってしまう。私も実は昨日観ていて、この映画の中で、「日本でだって、日本人同士が殺し合って」というセリフがあって、それは、前に観たときには、そこのところはあまり響かなかったのですが、ちょうどいま、学校の自殺問題が身近に起きたあとで、この映画を観ると、その言葉がグサッときて、「そうだよなぁ。でも、そんな言葉を俺が書いていたのは、どういうことだったんだろう。」と。でも、書いたのは自分じゃないですよ。上の人がね。それぐらいに、自分が創ったという感じではない映画なのです。何故かこの映画の全てが、そういう自然界の力に、委ねられていたというか。ただ、昔から、僕は映画という物は、不自由な不便な物だなぁというのがいつもあったのです。2時間以内の劇映画とドキュメンタリーしかないでしょう。エジソンという人が、この映画を発明したときには、そんな風なことは考えていなかった。1秒の映画があっても良いだろうし、100時間の映画があっても良い。どんな映画があっても良いはずなのですが、なぜか商業主義の中で、そうなってしまったのですね。僕は、そういう商業主義の中で育った監督ではないですので、今でも映像作家と名乗っているのは、小説を書くように映画を創っていこうと。だから、うちの奥さんがプロデューサーとして全く個人でやっていますが。これは、小説でいうと徒然草なのです。徒然草というのは、実際に見聞したものを自分が自由に随想して描いている。そういう映画が出来たら良いなぁとは昔から想っていたのですが、そんなものを創るチャンスもないですし。それが、この3・11のときに、いまこそそれができるなと、そういう声がしたのだと思うのですね。あなたがおっしゃるように、結論のある話をしっとりと画いたものなら、1回観れば、「良かったわ、これで分かった」となるのでしょうが。この作品は問いかけているだけですから、どなたもが何度もご覧になる。そして、おっしゃるように、必ずこの映画を観た後は、「私はこうでしたよ」と皆さんがおっしゃるのです。戦争体験者はもちろんそうだし、戦争を知らない若い人たちも、それはお爺ちゃんから聞いたなぁ、お父さんから聞いたなぁ、と。私が一番感動したのは、4歳の男の子を連れて来たお父さんがいて、その4歳の子供がこの映画を観た後にお父さんを見て、「お父さん、僕、いま生きてるの。」と聞いたそうです。これは素晴らしい言葉です。お父さんが「うん。君は生きてるんだよ。あの自転車に乗っているお姉さんも生きているんだよ。一緒に生きて、戦争のない時代を創ろうね」と。4歳と言うのは、一番純粋な心を持っていますから、実は、この映画は難しい映画で、大人ですら理解するのが難しいと言われているのだけれども、4歳の子供がスパッと一番僕が伝えたいことを分かってくれた。「僕、いま生きてるの」4歳の子供ですよ。これも映画の力ですね。」

 そして、質問コーナーも終わり、最後に監督から、「うちのパートナーが、あちらにいますので。」と奥様の大林恭子プロデューサーを紹介し、会場から拍手が贈られます。

 恭子さんからもひと言、来場者にご挨拶がありました。
 「今日は、本当にありがとうございました。私たちは、監督の作品を創りましたが、今日、こうして皆さんのおかげで映画になりました。本当にありがとうございます。皆さんのおかげで、素晴らしい映画としてひとり歩きができたと思います。これからもどうぞよろしくお願いいたします。ありがとうございます。」


(来場者に向けて挨拶をする恭子さん)

 恭子さんの言葉に、大林監督からは、「私も一緒になって半世紀以上、大学時代から一緒ですが、戦争の話は、ほとんどしたことがないのです。でも、いつも羽田に行くときに、彼女が運転して、私が横にいますと、お台場の橋を渡るときにいつも「東京は復興したわね」とつぶやくのですね。というのは、3月10日のあの東京大空襲の中を、逃げ惑った体験のある人で、しかしながら、私たちは、60年近く一緒に手を寄り添いあっていたのですが、今度の映画ができたときに、「私の3月10日と、ようやくつながったわ」とひと言感想を残してくれたことが、私にとっても大切な想いでした。この映画はきっと、お一人おひとりのなかにあるそういう想いが、きっとどこかで誰かと繋がっている。戦争というのは痛ましい体験ですが、しかし、この深谷と長岡がこうして繋がっていく。あるいは、広島や長崎、ビキニ環礁とも繋がっていく。映画はどこかに繋がっていますので、手繰り寄せられていくと、全ての繋がりの向こうにあるものは、きっと平和というものではないのかなぁ、と。それを信じるのが映画で、いつかこの映画は、そういうエンドマークを迎えられる時がくると思いますので、それまでどうか皆さんの手で育ててください。」

 舞台から降りる際には、「また深谷に戻って参りますので。」と心強いメッセージを送られた大林監督。
 怒涛の1時間半は、これからの“街なか映画館”のあり方に関して、非常に濃密で貴重なものとなりました。

 トークショー終了後には、深谷シネマの交流スペースにて、サイン会も開催され、その後は、敷地内の古書店『円の庭』さんにて、監督や恭子さんを囲んでの交流会も開催。店内のテーブルには、かつての醸造樽の大きな木蓋が再利用されています。全国から集まった珍しくて素敵な古書の数々と、不思議なお札に囲まれて、遅い時間まで、街なか映画館の話で盛り上がりました。



 交流会では、大林監督から、『この空の花~長岡花火物語』と合わせて観てもらいたい作品として『放射線を浴びたX年後』というドキュメンタリー映画を紹介していただきました。


(公式サイトはこちら → http://x311.info/

 作品の公式サイトには、大林宣彦監督から
 「知らず学ばず、 忘れたふりして、燥ぎ過ぎた平和と繁栄の中を生きてきた日本は、3.11と共に壊滅した。今こそ僕らは正しい日本の未来を手繰り寄せるためにも、例えばこの「X年後」を見なければ、体験しなくてはならない。積年のテレビ番組を注目してきた僕としては、今、その映画化の成果を、諸手を挙げて応援します。これは貴重な日本と日本人の記憶です……」
 とメッセージを寄せられています。

 キネマ旬報のレビューでも辛口のレビュアーたちが好評価をつけていた『放射線を浴びたX年後』は、昨年、ポレポレ東中野さんにて1ヶ月ほど公開されたので、ご覧になられた方もいらっしゃると思いますが、本年も3月10日(日)から3月16日(土)まで、深谷シネマさんでの上映が予定されているので、まだご覧になられていない方は、この機会をぜひお見逃しなく。

(りょう)  


2013年01月11日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)未来に紡ぐ

長岡百花繚乱の紀~『深谷シネマ・トークイベント』 レポート④

 と、ここで「会場の皆さんも、聞いているだけではつまらなくて、腹が立っている人もいるかもしれないので(笑)」と、大林監督自ら切り出して質問コーナーに突入です。
 これに対し、「お時間がかなり押していまして、第5部まで入っているのですが。大林監督がそうおっしゃられているので」と、竹石館長が笑いを誘います。


(深谷シネマ内の交流スペースでパンフレットにサインを入れる大林監督)

 ひとつ目が、「今回の映画の中に、一輪車の少女がたくさん出てきたと思うのですが、あれは、どういう表現だったのか、監督に何か想いがあれば、お聞かせいただければと思います。」という質問です。

大林:「普通、劇映画を創ろうと思うと、あの一輪車に乗っていた少女は、昭和20年の8月1日の夜10時30分から12時の間に死んでしまった子ですよね。その子が現代に高校生として蘇ってくる。そのためのファンタジーとしての仕掛けを作らなくてはいけないのです。私も実は今までに、随分、死んだ人と生きている人が一緒に出て来る映画をファンタジーという形でたくさん撮って来ましたが、実は理由がありまして、私のちょっと先輩の、若いおじちゃんやおばちゃんたちは、24歳で死んでいるのです。戦争に行ったり、毎日、汽車に乗って出て行っては、白木の箱に入ってお骨で帰ってくる。ですが、24歳までの間に、見事に夫や父であり、画業や文書や、更には、家族に送った出紙を見ると見事に大人でしょう。立派に生きていますよね。それに比べて、この敗戦後の平和の中を生きてきた自分は、もう50も60も70も生きているけれども、あの先輩たちの24歳にはとても勝てないぞ、と。すまないという思いがあって、それで私の映画の中では、早くして死んでしまった人たちの方が、実は立派に生きていて、いま生きている自分たちはちょっとだらしないぞ、ということを、ずっと想い続けてきました。そして、先ほど言いましたように、2010年に私は寿命が尽きていたのです。この世に引き戻せられて、向こうに住んでいる命も、こちらに住んでいる命も同じだな、と実は思ったのです。この貴重な体験から、ありがたいことに1945年の8月1日に死んだあの子も僕も、同じところに生きているのです。だから、今度の映画では、もうファンタジーの仕掛けは一切いらない。もう君そのものが、ここにいてよ、と。ただし、映画ですから、一緒にいたのでは、お客さんに理解してもらえないから、一輪車に乗せることで、あのスピード感や目の高さが違うので、自分たちのように地べたに張り付いて、狭い視野で見ているよりは、ちょっと高い所から見ることで、自分たちが至らないことや学ばないことを、死んでしまった彼女の方が、より見通しているということを、見通されているという恐ろしさも含めて、あの健やかな姿勢の良い彼女が伝える言葉が、この映画の平和である、と。実は、彼女は、世界の一輪車チャンピオンなのです。だから、見事な演技なのですね。しかも、将来は学校の先生になるそうです。実は、青森の弘前の人なのですけれども、子ども達に対して、ちゃんとした先生になろうということで、きちんと伝えるということを心掛けているので、あのときは、18歳でしたか、だから、言葉も演技が下手なタレントさんよりも、非常にはっきりしている。そういうことを学んでいる子ですし、一輪車に乗るので、姿勢も良いのですね。ところが、私は一輪車を知らなかったので、「この道も走れる?」とか、「ここでぱっと話して」とか言って、彼女はみんなやってくれたのだけれども、一輪車の競技での世界チャンピオンでも、目線をピタッと合わせて話すという、あの演技はできないそうなのですね。これは、一輪車乗りの技術としても、彼女は世界で一流だけれども、やはり、誰かに自分の想いを伝えようということで、若いなりに、一生懸命に良い学校の先生になろうということを学んでいる人だから、あのように、きちんと目を見て物が言える。言葉が伝えられる。その彼女と、実は僕は2009年に長岡花火と出逢った年に偶然に逢っているのですが、この偶然は、僕にとっては偶然だけれども、上の人にとっては、きっと必然なのだろうと思っています。それで、彼女に、そのまま一輪車に乗ったまま演技をしてもらおうと話しをしました。彼女に逢っていなければ、このアイデアは、僕の中に生まれなかったでしょうけれども。逆にそういう人に逢っていましたので、これもご縁だということで、「この映画のために、僕はあなたに逢えたのだよ」ということですね。」


(敷地内の『シネマかふぇ七ツ梅結房(旧ててて亭)』。普段から映画好きが自然と集まる交流スペースとなっています。)


(店内のメニューも映画の舞台にちなんで、長岡の名産が揃えられました。写真は、「栃尾あぶらげ~かぐら南蛮味噌がけ」。他にも、山古志牛を使ったステーキ丼なども。)

(りょう)

つづく  


2013年01月10日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)未来に紡ぐ

長岡百花繚乱の紀~『深谷シネマ・トークイベント』 レポート③

大林:「今日は、長岡の市民や行政の方々が、里の映画を皆さんが観てくださるというので、表の庭に自主的に来られています。私も今日は久々にお会いして、「撮影のときに車を運転してくださったあなた。」と再会ができましたが、いらっしゃいますか。」

 ここで、長岡のスタッフが登場。拍手で迎えられます。

「皆さん、これから深谷で映画を撮ることもあるかもしれませんが、この人は市役所の方なのですが。」
と、大林監督と市長から、「せっかく来たのだから、長岡の宣伝もしないと」とマイクを向けられます。

 「皆さん、こんにちは。遠いようで近い長岡からやってまいりました。2時間で来られます。機会を見てわたくしもまたこちらにお邪魔したいと思います。とにかく昨日のネギが美味しかったです。この映画は、たくさんの方に観ていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。」

大林:「エピソードは色々あるのですが、この映画の中で、犬塚弘さんが土手の上で「ワシは日本男児だ」と言っているところがありましたでしょう。あの丘の場所がなかなか無くて、下が防空壕になっていて上が土手になっている。ようやく見つけたところがあそこなのですが、あの場所に来るまでに200mあって、その道路が、雑木がこんなになっている、草もこんなになっている、馬も牛も歩けないような土手なのです。でも、何とかして犬塚さんをあの場所に置きたい。さあどうする。その夜、撮影でした。夜に着いたら、道が作ってあるのです。彼が一人で作っていたのです。この人がひとりでやったから偉いということではないですよ。他の人たちも他の場所でこういうことをされていたということなのですよね。そういう力が結集して、こういう映画ができた。さらにそれに感動した俳優たちが、大林映画にまた出たい、とおっしゃってくれているというのも、そういう力ですね。長岡魂です。不思議じゃないですよ。去年の花火を上げたのも。本当に、見事でしたね。」

 この言葉に、会場からは拍手が。


(会場内には、長岡花火を紹介するブースも)

大林:「市民代表として、長岡映画製作委員会という会を作ってくださって、この映画を一緒に創った訳ですが、その代表の渡辺千雅さんも会場にいらっしゃいます。ここに来ているのは、ほんの一部の代表ですが、このような熱い想いで一緒に映画を創ったというのは、やはり都市には志があるのですね。都市の志、それが大事です。日本にも志があったはずですが、その志が見えなくなっているということが、不安ですよね。やはり、志は探していかなくてはならない。それは、あの時の東日本大震災の被災者の方たちは、見事な志を全世界に向けて発信されましたよね。だから、日本は素晴らしい、日本人は素晴らしい、と。どんなにお金をばらまいても、負けた国だから、銃を持たないで、お金だけ出すのは当たり前、と感謝もされなかった日本人。つまり負けた国というのは、対等な外交ができないのですね。ところが、お互いの国を心から尊敬しあって、困ったときには手を差し伸べあおうという本来の外交の姿を見せたのが、あのときの東日本の被災地の方たちなのですね。そういう力が、私たち日本人の魂の中にあった訳ですから、私たち一人ひとりがそういう力を活かして、賢い美しい国民になっていけば、我々の代表である行政の市長さんも、このように美しいひとりの人であられるはずですし、組織になると、ついつい間違った方向に行ってしまうのですが、一人ひとりの力が、一人ひとりの自由な立場で結束していけば、大きな力になる。これからの日本は、きっとそういうことではないだろうかと思うのです。お一人おひとりが、それぞれの喜びや悲しみを持って映画館に座れば、一本の映画が映画館の中にひとつの世界ができるように、皆さんがいま映画館の客席に座っているように、自分の一番正直な気持ちを大事にされていらっしゃれば、市長さんも、その同じ席に座って映画を観てくださる。」

市長:「おそらく、どんなに勉強しても、どんなに色々と本を読んでも、やはりその現実現実を本当に感じることには叶わない。おっしゃるとおり、おそらく皆さんには、それぞれに様々な人生が今まであって、被災地に行けば被災地で感じる部分がある。私は、監督の映画を観ても思うのですが、やはり自分で行ってみて、感じて、やっていかないといけないと思っています。「皆と話し合ってやっていくんだ」と口先ばかりではなく、やはり、そういう部分は必要なのだと思います。だから、日本が、世界に発信する外交の部分であっても、本当に、日本人一人ひとりが、どういう暮らしをして、どういう風に色々と頑張ってきたのかということを、色々なものを通じて見てみたいなと思います。」


(併せて設置された『この空の花~長岡花火物語展』)

(りょう)

つづく  


2013年01月09日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)未来に紡ぐ

長岡百花繚乱の紀~『深谷シネマ・トークイベント』 レポート②

大林:「ありがたいですね。でも、それは私が、ではなくて、映画が、なのですね。映画というものは、嘘を言ったら終わるのです。もちろん、虚構ですから、嘘はつくのですよ。だけど、この嘘は、真を生む嘘なのです。真を生まなければ、単なる詐欺師ですからね。そこが分かれ目なのです。真を生まない詐欺師と、真を生む本当の人との違いは、どこにあるのかというと、良い映画になるか、ただの金儲けのためだけの映画になるのかの違いなのですね。私は、ふるさと映画作家として、そういう良い映画を産み出せるふるさとと付き合いたい、ということよりも、自然に引き寄せられていくのです。この深谷にも、引き寄せられて来て、初めは何だか分からなかったのですが、理由は後から分かるものなのですね。こういう場で、市長さんと話すチャンスというのは、なかなか無いことです。普段は、忙しいからとおっしゃるのですが、この小島市長さんは、ここにいらっしゃるから、いま忙しいのですね(笑)。それが大事なのです。普通は、私は忙しいから映画には行けませんと言うのですが、映画のために忙しいという、文化のために忙しいという、人の笑顔や喜びや正直な気持ちに忙しいという気持ちを持たない方が多いから、日本のまちはいまそう状態になっているのであって、この方は、そのために一番ここで忙しくしているという。」

 大林監督の言葉に、客席からは賛同の拍手が。

大林:「横に座っているからといって、私は人をおだてたりはしません(笑)。感動したのです。この前うかがったときに、メールの話がありましたよね。市長さんは、メールは受けますが、返事はメールではなくて、逢いに行って語ります、と。これは、現代文明の、現代機器の正しい使い方なのですよ。メールというのは、やはり現代の科学文明が生んだ素晴らしい技術ですが、科学文明というのは、やはりどこかに間違って使うと犯罪にも便利な物にもなるのです。この科学文明の危険さというのが、まさに、これを知恵として使えるのか、犯罪になってしまうのか、ということが問われている訳で、携帯電話は聞く分には凄く便利ですよね。色々な人から街のどんなところでも情報が入ってくる。だけれども、便利だからと言って、それで答えると喧嘩になってしまう。答えは逢いに行って、顔を見て話す。これには感服しました。」


(劇場公開に合わせて開催されたヒロシマ・ナガサキ原爆展)

市長:「ありがとうございます。やはり、人が逢わないと、それ以上の何かは産まれないのではないかと、いつも思っています。だから、行ける限りは、どこにでも行って、特に今回の映画を観て皆さんも感じたと思うのですが、長岡に行きたくなってしまいましたよね。本当に、ここから高速ですぐです。私もこの前に映画を観させていただいたのですが、おそらくあの映画を観て、感じるものは皆さん人それぞれだと思うのですが、それが学校なのかなと思うのです。だけれども、何かを感じても、人に「この映画がこうだったよ」と評論家ではないですので、「何しろ観よう」ということしか言えない。だから、人と逢うときも、映画を観るときも、全てを自分で飲み込んで、全部理解して、それから発信しないと、そのひと言が怖いなぁ、と思っています。」


(旧七ツ梅酒造)

大林:「市長さんが良い人というのは、それを選んだ市民の人たちが良い人ということですね(笑)。だから、私は、市長さんを褒めているのではなくて、皆さんを褒めているのね(笑)。いずれの里もそうです。長岡の市長さんも本当に立派な方でしたが、市長さんが一人で花火を上げるぞと言っても、花火は上がりませんよね。やはり、その市長さんを選んだ長岡市民の人たちがみんなで徹夜をして、花火を上げようという気持ちでひとつになったことが、この奇跡を生んだ訳ですから、やはり、官と民が一緒になっている里というのは、一番映画を撮るのに嬉しい所なのです。私は、結果として、ですけれども、このような日本の敗戦後の姿を撮り直そうという仕事を始めたのが21世紀になってからで、最初が大分県の臼杵というまちで『なごり雪』という映画を撮り始めたのですが、このときの臼杵の市長さんに、「この里では映画は撮らないでください。せっかく静かで穏やかな観光客も少なくて、みんな昔どおりの暮らしができているのに、監督が映画を撮ったら、観光客がいっぱいになるでしょう。それでは困るんです。」と言われました。映画を創るのを断られたのは初めてですよ(笑)。そうしましたらね、市長さんが市民と相談をして、「30年前から何も変わっていないこのまちを、監督が気に入ってくださったということは、貴重なことだから、映画を撮ってもらいましょう」と。「その代わり、映画を観て、観光客がどんなに来ても、そのために、古い建物を壊してレストランを造るとか、そういう馬鹿なことはしませんと市民と約束をしましたから」とおっしゃるのですね。これはやはり古い里を、文化を残そうと守られている里で、まさにこの深谷の精神と同じなのです。それで、この臼杵市長さんが、そのころの全国市長会の会長さんでした。今度は長岡に行って、長岡の市長さんと話をしていたら、ちょうどいま会長さんだそうですね。これは別に私がそういうところを選んで行っている訳ではなくてね(笑)。引き寄せられていくと、そういう立派な市長さんがいらっしゃる所に行っている。ということは、やはり、行政というものも、市民だけが良くても駄目。行政だけが良いということはありえない。なので、やはり行政と市民が一緒になって、市を育てるということは、皆さんが選んだ市長さんの背中を押して、市長さんに連れて行かれると、昔のガキ大将が、ガキ大将としての純粋な心をお持ちのまま、ベテランの少年となって、素晴らしい文化が産まれるのですね。」


(交流会の会場にもなった『円の庭』さん)

市長:「監督が行くところ行くところ、その街にみんな物語があるのかなと思います。だから、日本全国どの市でもどの町でも、やはり歴史があって、色々な人の物語があって、それを踏まえて、いま生きている自分たちが、この市を、この町を、この古里をどうしていくのかということを、色々と、行政も民間も、みんなで議論している中で、監督の感性で、深谷をそのように見ていただけているというのは凄く嬉しいですし、それをまた励みに皆でこの深谷の物語を紡いでいきたいと思います。」


(途中、会場の熱気に、冷房用の氷柱が溶けて倒れるハプニングも)

大林:「本当に、この深谷は映画の里としても、見事な見識のあるところです。映画というのは、事件を選べないのです。物語を選ぶのです。3・11も事件にしてはいけませんね。あれは、自然界と人間との悲しい物語。そこから人間が何を学ぶかという、賢い人間になるチャンスだと思います。」

市長:「3月11日のあの震災の日以降、深谷市でも様々なことがありました。私も市長として、様々な経験をさせてもらいました。今回の映画を観ても同じことなのですが、やはり、日本人が忘れかけていた何かがあるのだろう、と。また、これを、監督がおっしゃったように、やはり、きちっとした経験として、知恵として活かしていかなくてはいけないなということを、今でも考えています。そんな中、私は結構ポジティブな男で、やはり日本人、日本民族は凄いなというのと、映画を観ても思ったのですが、「国破れて山河あり」という。私も被災地に行って、色々な感覚があったのですが、最後はやはり山を見たりすると、何か生かされていて、自分たちがその中でどういう生き様で生きていかなくてはならないのか。本当に考えさせられました。」


(トークショー会場となった旧七ツ梅酒造東蔵)

(りょう)

つづく  


2013年01月08日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)未来に紡ぐ

長岡百花繚乱の紀~『深谷シネマ・トークイベント』 レポート①

 『転校生さよならあなた日記』読者の皆さま、あらためまして、あけましておめでとうございます。
 本年も、どうぞよろしくお願いいたします。

 2013年最初の連載は、昨年7月15日、深谷シネマでの『この空の花~長岡花火物語』公開に合わせて、同敷地内の旧七ツ梅酒造東蔵で開催された大林宣彦監督のトークショーの模様をお届けしたいと思います。
 新春対談ではないですが、大林宣彦監督と小島進深谷市長との対談では、これからの“街なか映画館”のあり方や行政との関わりについて、非常に示唆に富んだものとなりました。
 特に、全国のフィルムコミッション事業に携われている行政の方には、必見の内容です。

 トークショー当日は、作品の舞台長岡から長岡映画製作委員会代表の渡辺千雅さまを初め、長岡市役所や山古志の方も応援に駆け付け、広場では長岡の物産販売が、またトーク会場となった東蔵では、ヒロシマ・ナガサキ原爆展も開催され、あわせてロケ模様や長岡花火の紹介展示も行われました。


(深谷シネマ内での『この空の花~長岡花火物語』を紹介するコーナー)

 13時30分からの深谷シネマでの『この空の花~長岡花火物語』の上映は、入場制限がかかるほどの大盛況。映画上映後に、広い旧七ツ梅酒造東蔵へと場所を移して16時30分から始まったトークショーは、終了したときに時計を見ると18時をまわっていました。まさにノンストップの1時間30分。トークの前半部分は、これまでこの日記でご紹介してきた内容と重なっているので、後半、深谷市長との対談部分からご紹介します。

 「2限目は特別ゲストとして地元の小島市長にご登壇いただきます。」と竹石深谷シネマ支配人に促されて舞台上に登壇する小島深谷市長。


(地元・深谷産のとうもろこしをプレゼントする小島深谷市長)

 対談形式ですので大林監督の発言は『大林』、小島深谷市長の発言は、『市長』と冒頭記させていたただきますね。

大林:「この映画館が開館した日、小島市長と初めてお会いしたときに、「ここは、私が子供の頃、棒っきれを振り回して、遊んでいた所なのですよ」とニコニコした顔でお話しされていたことを、今でも嬉しくて覚えているのですが、この映画館は、そういう子供の遊び場がそのまま映画館になって、ベテランの子ども達がたくさん集まっているというのは素敵なことですね。」

市長:「ここは、私が子どもの頃、基地として遊んでいた所だったのですけれども、今は逆に、竹石さん(深谷シネマ支配人)をはじめ、イイ大人が皆遊んでいます。」

大林:「それが、まさに映画館なのです。竹石さん、本当に素晴らしいですね。こんなにも皆さんが集まってくれて。でも、僕がこのまちが素敵だと思うのは、いまの長岡映画の話もそうですが、人なのです。人が美しいまちが一番素晴らしい。映画館も実は、「イベントのように映画館さえ作れば良い」と思っている人が多いのです。それでは、残念ながら、映画好きだけが集まって、ただ自分たちの好きな映画だけを映していれば良いという範囲の話になってしまうのですね。竹石さんは、映画館を作られる前に皆さんとお逢いになったでしょう。私は感動しました。映画館を創る前に、この深谷のまちのおじいちゃん、おばあちゃんたちを訪ねて、昔の映画の話をして、「映画って、こんなに良かったよね」と話をして、その皆さんが楽しめるような映画館を創ろうということで、つまり、人から始まった映画館というのが、全国の人たちがこの深谷シネマをひとつの模範にしたいということにつながっている。それがやはり深谷という都市が持っている志なのでしょうね。」



市長:「何回か、監督と逢わせていただいていますが、こうやって逢ってお話しができるというのも出逢いですし、ここで色々なことができるというのも、全て人の出逢いから始まっていて、どちらかというと行政というのは、予算をかけてまちを活性化していくということで、どうしてもハードの方から手に入れようと思ってしまうのだけれども、いや待てよ、おそらく日本全国で中心市街地が寂れて、どこの自治体の市長さんも中心市街地を何とかしようということで、限られた財政の中で何とかしようと考えているのだと思うのですけれども、ほとんどが上手くいっていない。私も色々なところへ見に行ったときに、みんな人任せなのですね。どちらかといえば、行政も、区画整理が終われば、そのうちには商店の方たちが一生懸命にやってくれるだろうと。例えば、商店の人は、行政が一生懸命に区画整理をしてくれて活性化してくれるだろう、という人任せなのだけれども、それはちょっと違うな、と。やはりソフトという部分で、行政が上からあれやってくれこれやってくれと言っても、人は絶対に動かないと思うし、先ほども大人が子どもになっていると言いましたけれども、好きな人が好きな人と逢って、またそこから輪が広がって行って、もっと違う化学反応が起こるんだろうな、と思っているし、では逆に、一緒に楽しむものは楽しくやって、悲しいものは悲しく、という同じ気持ちを共有していきたいなとつくづく思っています。監督の前では嘘をつけないですね。全部見透かされているようで(笑)。監督とお話しをしていると、すっと自分を受け入れられて、楽しく思っています。」


(賑わいを魅せる中庭)

(りょう)

つづく  


2013年01月07日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)未来に紡ぐ

こんにちは2013年

新年、あけましておめでとうございます

つながる場所があるから、人は強くなれる

映画・演劇・音楽・まち歩き…
2013年も、皆さんに奇跡のような素敵な時間との出逢いが、たくさんありますように

想像の力で夢が正夢となる2013年へ-

『映画“転校生さよならあなた”日記』、本年もどうぞよろしくお願いいたします



(りょう)  


2013年01月01日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)未来に紡ぐ