いばらきロケ地マップ



茨城県在住のO様に「いばらきロケ地マップVOL.3」を頂きました。
(O様、ありがとうございました。)
発行は茨城県企画部地域計画化フィルムコミッション推進室様。

いばらきフィルムコミッション公式サイト ←こちらでもご覧になれます☆

広げてみたところ、このブログでもしげぞーさまにご紹介頂いておなじみの
「その日のまえに」守谷駅のシーンが早速掲載されておりました。
ひがしざわもこのシーンにてエキストラとして参加したので思い出深い場所でもあります。



他にも茨城県では新作だと
「ヤッターマン」「MW」「ディア・ドクター」「カムイ外伝」など続々と撮影されているようです。
エキストラ情報もたくさん出ています。
関東圏の皆様にとっては注目のロケ地ですね。  


2009年04月30日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)映画関連

シアターキノ様17周年記念企画


(C)2008「その日のまえに」製作委員会

6/5(金)にDVD発売が予定されている「その日のまえに」。

映画「その日のまえに」公式サイト ←詳しくはこちらをクリック下さい☆

しげぞーさまとりょうさまに3月~4月「尾道シネマ」様、「高崎映画祭」様、「深谷シネマ」様
での「その日のまえに」上映の模様と大林監督のトークショーをレポ頂きました。
これから「川越スカラ座」様もご紹介予定です。

「その日のまえに」は5月頭には「尾道シネマ」様でのアンコール上映が終わり、
その後はDVD発売の「その日」まで北海道の「シアターキノ」様(5/9~5/22まで)
と「シアターアイリス」様(5/23~6/5)でロードショー上映予定です。

シアターキノ様では「その日のまえに」上映に合わせて企画上映があるそうです。

<シアターキノ17周年記念企画>
「大林宣彦――ここから始まる人びとの物語」
5/9(土)~5/22(金)
『その日のまえに』(2008)
『あした』(1995)
『異人たちとの夏』(1988)

詳しくはシアターキノ様公式サイト ←こちらをクリック下さい☆

シアターキノ様は市民出資によるNPO型の市民映画館だそうで
意欲的な上映に取り組まれてます。

大林映画を追って北へ。。。
観光シーズンの北海道へ旅立つなんて素敵ですね。  


2009年04月29日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(6)映画上映

トークin深谷シネマ 第7話:<その日の(トークの)あとで>



(客席の小生を指して笑いながら)
そうそう、ここにいる人、こないだ 18回目だったけれども今日は何回目?
「19回目です(汗)」
私より観ているかも(笑)。
こういう人たちに支えられ、僕たちは作り続けられるんです。
19回観るとそのたび違ったでしょう。
「そうですね。」
1回観て終わりではつまらないよね(笑)。
皆さん、これからもこの深谷シネマに下駄履きでいらして盛り上げてください。
ありがとうございました。(大きな拍手)



そしてお約束のねぎ束贈呈(笑)。
今回は「丸かじりが一番」な箱入りトマトも。
大林監督、両手に地元の名産を抱えて満面の笑顔。
「こんな嬉しいプレゼントはないね。素敵なトマトまでいただいて。これが映画。
花束もらって舞台でふんぞり返っても映画じゃないよね。ありがとう。」

終了後、パンフ販売&プチサイン会があり、ロビーが人であふれました。
監督と恭子さんにご挨拶だけして失礼しようと思っていたたところ、
スタッフの方から「懇親会」にお誘いいただき、恐縮しながらもせっかくなので末席に
同席させていただきました。
会場は映画館から少し歩いたところにある、元・造り酒屋「七ツ梅酒造」さん。
偶然にも、昼間のまちあるきで「これは見事」と写真を撮ったお屋敷でした。
「うだつのあがった」蔵づくりの立派な商家。
深谷フィルムコミッションさまの拠点の1つで、2008年の映画祭では
深谷シネマさまとともにここでも上映があったとか。
江戸・享保年間創業で300年あまりの歴史があるだけに、
タイムスリップしたかような屋内のつくりと調度品類。
映画やドラマのロケ地にもなっており、関係者の皆さまも、
大林監督にお見せし、機会があればいつか・・・という想いが?
伝わってきました^^。



監督ご夫妻、サポート役のNさん、
配給会社のMさんはじめ各方面に頑張っておられる地元の皆さまと、
名物<煮ぼうとう>や<焼き葱>に舌鼓、
いろいろなお話を肴に大いに遅くまで盛り上がりました^^。
こうしてまた1つ、映画の紡いでくれた縁が広がってゆきます。
日常だけでは出会うことがなかったであろう方々と交流できるのも、
映画そして大林監督のおかげですね。



しげぞー  


2009年04月28日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(6)各地映画祭巡り

トークin深谷シネマ 第6話: <キャストで「アテ」る?>

トークin深谷シネマ 第6話: <キャストで「アテ」る?いいえ、映画は「学校」。>

原作への8社からのオファー、主演キャストの候補が皆同じだったとか。
今時こういう映画を作ろうと思うと旦那役、女房役それぞれ誰、と浮かぶもの。
そういう方をキャスティングすれば全国何百の映画館で上映され大ヒット。
そういう方法も否定しないが、僕の場合、
映画を本当に愛する皆さんにじっくり観ていただきたい。
僕たちの映画はプリントが10本だけ。
フィルムを順に全国まわすのでこちらに来るのが今日になってしまいました。



去年11月に東京で上映して仕事としては終わっているが、
今日も配給会社の方が来てくださっています。
プライベートの自分の時間、自費で遊びに来てくれる。
そんな風に仕事を離れてこの映画を愛してくださるスタッフもいます。

(そしてナンチャン、ヒロベエの2人をキャスティングした顛末や、
主題歌を担当したアーティスト・クラムボンとの出会いについて。。。略^^)



映画は「つじつまのあった夢」。
この映画は綱渡りのように辛うじて繋がっていて、何とか渡りきれたという感じ。
これは偶然でなく必然。ちょっと分かりにくかったりはらはらしたでしょうが、
僕にしてみれば映画自体不思議なもの。
何度観ても分からない。
でもその不思議に魅力があれば、どんどん観てゆくことで人間の力が高まってゆく。
宮沢賢治の言葉に「永遠の未完成、これが完成なり」というのがあります。
自分の中の「?」をどんどん深くしてゆくのが成長だと思うんです。

今は情報時代、結論を出さなくてはいけないと言わるが、
映画だけは結論を出さず不思議を育ててゆきたい。
死も不思議。
でも誰もがいつかその日を迎えるというなかで生きている。
生きることだって不思議。
不思議を不思議なまま、深く考えて描いてゆくのが映画。
そういう映画を愛する皆さんに、次も作ってね、
と言っていただいて頑張れるのが私たち映画人の誇りと思う。

この映画が出来上がった後、スタッフも皆本当に嬉しくて満足して、
大変な幸福感の中にいます。
こういう映画を作れるチャンスは本当にありません。
皆さんの心のスクリーンにもう一度この映画が映って、
この映画好き、いいな、もっと語りたい、考えたい、と思ってくださるようならば、
ますます素晴らしい映画の学校として育ってゆくと思います。



4月、衛星劇場で淀川さんのあとを継いで「大林宣彦のいつかみた映画館」と
いう番組が始まりました。1930~60年代の作品を紹介します。
若い人たちには「昔の映画はこんなに面白かったの?」
昔のファンの方には胸が躍る傑作を蘇らせようと70歳の新人は思っています。
これからもよろしくお願いします。
今日はどうもありがとうございました。

(以上でシネマトークは終了です^^)

しげぞー

続く  


2009年04月27日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)各地映画祭巡り

トークin深谷シネマ 第5話 <行こうキネマ。>

トークin深谷シネマ 第5話 <行こうキネマ。70歳の新人、出発進行!>

先年両親を見送りました。
両親が逝くのは悲しいけれど人間の意思ではどうにもできない。
しかし息子や娘が先に逝くのはとんでもないことで親の責任です。
娘の死を題材にお客さんを泣かせて映画をヒットさせるなど罰当たり。
どうすれば許されるか悩んだ末、
「そうか親である自分が責められればいいんだ」
親が勝手に名前をつけたわけでそんな親の身勝手さに対する贖罪のようなもので
ようやく娘の死を映画にさせていただこうと心が決まった。



「70 歳の新人」と発表したが、私たちの時代は人生50年、
しかも子供のころは戦争中で近所のお兄ちゃんたちは24、5で命を落とした。
自分たちもと思っていたら戦争が突然終わり自由がきて生き延び、
50を過ぎるころには平均年齢が80・・・。
小津安二郎先輩は50歳で代表作を作り60で亡くなりましたが、
小津さんころの60は今でいう85、6。
私など70になってもまだまだ(笑)。
先輩たちは70になれば「巨匠」、
自分がやってきた成果を円熟させてもよいわけですが、
まだ若すぎるし、新藤兼人先輩は100歳で映画を作ろうとしておられる。

24、5歳で亡くなった先輩たちが妻子、恋人や親に遺した手紙や絵は
本当に美しい。
それに比べて自分が今まで作ってきた映画はどうか?と考えると反省もし、
人生をもう一度やり直せたらと生まれて初めて思った。
待てよ、これから新藤先輩のところにゆこうと思えば24、5年映画を作れる。
新人として映画作りを始めて24、5年で先輩たちのような映画を撮ってやろう!
というのが、「70歳の新人」宣言です。



生まれて初めて作った、しかも子供のころ一所懸命観たような映画。
1960年代まで映画は「学校」と言われていました。
淀川長治先輩も「学校嫌いで勉強も苦手だったけれど
映画だけは誰にも負けないほど一所懸命勉強したから、間違いを犯さず人生を歩けるの。」と。
私たちはその最後の世代でしょう。
テレビもない時代、映画を何度も観ました。
頭の中に覚えこんで友達と何度も語り合う。
そのたび記憶やイメージが違う。
何度も観るから、今日観た時と明日とでは全く違って見える。
映画にはそういう不思議な深さがある。

最近の映画は1度観て分からなくてはダメ。
分からないとついてきてくれない。
昔は分からないから面白かった。
僕が観た映画と君が観た映画と違うから、
語り合うわけで、そういう映画にもう一度挑戦してみようと。



続く

しげぞー  


2009年04月26日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)各地映画祭巡り

トークin深谷シネマ 第4話:<シとセイ。最後に・・・>

トークin深谷シネマ 第4話:<シとセイ。最後に分かれば・・・できた!>

苦労したのはシナリオライター・市川森一さん。

「異人たちとの夏」から 3本目にお願いした映画シナリオですが・・・
「7編全部入れ、しかも皆がさめざめ泣くシーンは一切なしで脚本書ける?」
「7編全部ではわけが分からなくなりますね。」
「でも自分たちが若いころ観た映画はそうだったよね。
いろんな人がどんどん出てきてわけが分からない、
一体どうなるんだろう、とはらはらしていたら最後はうまく糸が結ばれて、
こういう映画だったのか、と分かって面白い、という作品が多かった。
この頃そういう映画がなくなったね。」



良くも悪くもテレビ時代。
テレビドラマは常に分からないとチャンネルを変えられます。
だから、人がこう生きてきて、死の宣告をされ、悩んで、亡くなってお別れした、
と時系列で描くのが分かりやすいが、それでは4時間半(笑)。
「市川さん、最後に分かればいいからやってみない?」
「今時そんな映画を撮ったら途中で帰るお客さんもいるかもしれません。
少なくともテレビでそういうホンを書いたら僕はクビです。」
「僕はクビにしないから(笑)。」
「では昔を思い出して、そういう映画を作りましょうか。」と。

そういう約束で書いてもらったけれど、台本を読んで今度は僕が困った。
1ヶ月返事が出来なかったのは初めてのこと。
毎日読み直しても、宮沢賢治の妹が出てきたり、わけが分からない。
原作を読み返すと17行だけ「永訣の朝」という詩があったのを忘れていた。
「永訣の朝」には妹とし子が出てくるがカタカナのトシ。
でもこの作品ではひらがな。
妹のトシさんが亡くなる時、賢治は大恋愛をしていて、
妹の死とともに恋愛もやめてしまう。

「あめゆじゅとてちてけんじゃ」

雨雪をとってきて、妹が言ったということで、妹の願い、
溶けてゆく透明な雨雪を見ながら恋人との関係もやめてゆくと。



そうか、この精神を生かせばよいのか!と原作の一篇の登場人物、
ギター弾きをとし子にして唄う曲を「永訣の朝」にし、
賢治といえば「セロ弾きのゴーシュ」だからギターをセロに持ち替え、
と発想はどんどん膨らみ、はたと思いついた。
ヒロインの和美も「とし子」にしてしえば一本つながるではないか!と。



そこで重松さんに「申し訳ない。ヒロインの名前をとし子に変えたいのだけれど」と。
思えば失礼な話です(笑)。
すると「映画は大林さんの作品ですから結構です。
ただ、40代にとし子という名の女性はいませんよ(笑)。」とのご指摘。
確かにウチの娘も千茱萸(チグミ)、当時の親である我々は、表現の自由だ!
○○子という名前でなく何か新しい名前を!と私も含めてそういう時代でした。
ならば彼女の父親が宮沢賢治ファンで、
子供の名前は親がつけるのをいいことに、
自分の趣味で娘にとし子という名前をつけたものだから、
やがて孫に
「お祖父ちゃんがとし子という名前をつけたからママは死んでしまうの?」
などと恐ろしいことを言わせる。
これを思いついた時この映画できた!と思ったのです。

続く

しげぞー  


2009年04月25日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(2)各地映画祭巡り

トークin深谷シネマ 第3話:<ヒア・カムズ・大林サン>



上映後、客電が点きトークイベント開始です。
スクリーン前に小さな椅子がセットされ、
司会の深谷シネマ・横山さまのご紹介で大林監督ご登場。
拍手のなか、いつものように白いスクリーンに手を上げて一礼されます。

(お話の内容をざっとご紹介しましょう^^)

今日は「その日のまえに」を観てくださりありがとうございます。
「映画を作る」といいますが、撮った映画を皆さんが
心のスクリーンで映していただいてようやく映画になります。
今日も、私の好きな深谷シネマで私たちの映画を映画にしてくださった
皆さんのお顔を見たくてまいりました。
昼間、高崎映画祭でご挨拶し、桜を眺めながらこちらへやってきました。



この映画は4年前発売され大人気になった、
日本を代表する小説家・重松清さんの作品。
家内から「この本読んでみて」と渡され新幹線の中で読んでいたら
泣きじゃくって「一体何事?」と皆にじろじろ見られて(笑)。
内容にも勿論感動しましたが、それ以上に小説の書き方が大好きなんです。

最近の小説は映像になりやすく具体的に書かれています。
「彼女は黄色いスーツを着ていた」と書いてあれば、
黄色いスーツを着せればお客さんも「小説通り♪」と納得。
ところが重松さんは何も書いていない。
着物か洋服か、スーツかパンタロンか全く分からないので映像になりにくい。
「黄色いスーツが良い」と私が言ってもキャメラマンは「青のほうが。」
照明は「白にしてもらえれば照明で色を当てますよ。」
皆で検討して結局黄色いスーツにしたとしても
映画館でスクリーンにかかるとまた大変。
お客さんもそれぞれ頭の中で着せているから
「黄色いスーツ?青でしょ!この映画嫌い!」
となるのでリスクが大きいんです。

でも私はそういう小説を映画にするのが大好き。
モノクロームの映画、黒白
(白黒とおっしゃらないところが大林監督らしいですね:しげぞー)
は黄色か青か黒かよく分からない。
でも観る人はそれぞれ自分の色にしている。
つまり想像力がいるわけです。
重松さんに理由を聞くと「小説は白い紙に黒い活字で印刷しているだけで元々色はない。
色は読者の方がつけてくださればよい。
唯一、ひこうき雲の伸びる空のきれいな青が引き立つといいな、
とだけ思っていました。」と。



情報時代、情報が多いほど親切と思れるなか、
極力書かず読む人が想像力で好きに読んで、という原作が大好き。
赤川次郎さんは犯人すら決めず推理小説を書いてしまう。
事件があり人がいるといつの間にか犯人になるべき人が
見つかりそれを書くのが小説だと。
つまり、どこかで運命の糸がズレて失敗すると結局罪を犯してしまうので、
最初から悪い人などいない、普通の人が何かズレて
犯人になってしまう悲しみを描きたいから、
犯人を最初から決めて書くようなことはできないとおっしゃる。

この小説を映画にしたいとラブレターを書き切手も絵で描き、
事務所が近所だったので自分でポストに投函。
最近は出版時から映画化が決まっている作品も多くダメかな・・・
と思っていたら「会いましょう」と。
既にドラマ・映画含め8社から申し込みがあったそうだが、
この作品は短編7つで1冊、主人公が少しずつかかわり、
最後の3篇が和美という奥さんとご主人の話。
いずれもこの3篇だけで約2時間の映画にしたいという申し出だったとか。
原作者は7編で作った以上全部映画にしてほしいが
普通に全部やると4時間を超えるし、
2時間にするには全部かき混ぜわけが分からなくなる・・・。
そこにきて私は7編全部やると話したので、では、大林さんやりましょう、と。

重松さんは人の不幸や病気で亡くなる人のことを悲しみ
観客を泣かせてヒットして・・・という、
今流行の<泣きの涙の難病もの>にはしたくない想いもあったそうです。
映画も商売である以上そういう方法がいけないとは言わないが、
私もそういうことのできない「たち」の人間なので。
(そして葬儀の遺影がよい笑顔である理由、重松さんの見解について。)



重松さんは「転校生」「時をかける少女」で育った世代であり
大林監督は大切な方だがもう70歳。
枯淡の味で旅立つ人を淡々と送る作品にされては困るとも思ったが見ると切手が絵?
こんな子供のようなことをする人ならきっと、
明るく楽しい映画にしてくれるのではないか、と思ったそうです。
また、こんなことも。
「今すぐだと原作人気でヒットさせようとしているようで嫌でしょう(笑)。
3年も経てば僕も次の小説を書き、皆この小説を忘れますから、
それから映画にされては?」と。
私も「世の中が皆忘れて、重松さんの次の小説がベストセラーに
なったころやりましょう。」と3年我慢し、去年の今頃から作り出したわけです。

映画をご覧になり「私が小説を書く時は、泣いていたら書けないから泣かない。
でも映画は良い。
夫が花火のなか歩きながら妻に逢いたいと思う。
小説でこれを描いたらホラーになってしまうので妻は死んだら死んだきりです。
でも映画を観ていると妻が帰ってきた!
観ていたら嬉しくて泣けて・・・
映画はそういうことができるんですね。
妻が鏡の前で一人泣くのも小説では悲しいシーンになるので書けなかった。
でも映画で観ると、悲しいけれど一所懸命生きようとしている姿も同時に映っている。
僕は映画から「その日のまえに」をもう一度小説化してみたくなりました(笑)」と。
小説家と映画作家はものを作るもの同士、
得てして張り合ったりぶつかったりすることもありますが、
今回はとても幸せな出会いでした。



続く

しげぞー  


2009年04月24日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)各地映画祭巡り

トークin深谷シネマ 第2話:<その日:4/5>

そして4/5、深谷シネマ・チネフェリーチェさまにて
「その日のまえに」上映&シネマトークです。
「暑くも寒くもなく、気持ちのよい」春の日差しのなか深谷駅に降り立ちました。
駅前では桜が満開。



澁澤榮一氏の銅像が出迎えてくれます。
近代日本の父たる氏も、鳩たちにとっては羽を休め日光浴させてくれる、
やさしいおじちゃんです^^。



深谷シネマさまは、長野ロキシーさまや尾道シネマさまなどより
一層コンパクトな、手作り感あふれる市民シネマ。
銀行だった空き店舗を活用、元のホールにスクリーンと50席ほどの座席が設置され、
映写室は金庫室だとか。
受付やロビーは10人も入ればいっぱいですが
そういった制約の中でも街から映画館の灯を消すまいという
スタッフ&足を運ぶ市民の皆さまの気概と心意気が嬉しい限りです。

市内にはいくつも映画館がありましたが、
最後の1館が閉館されて30年近く映画館のない街に。
2002年「もう一度街に映画館を」と行政と企業と市民による全国初、
街の映画館「深谷シネマ チネフェリーチェ(イタリア語で幸せな映画館)」が誕生しました。



開場時刻より早めに到着したので少しだけ「ふかや まちあるき」(笑)。
江戸時代からの宿場町でもあり、蔵づくりの旧家や造り酒屋の立派な建物、
近代産業の黎明期を彷彿させる石造りやコンクリのモダンなお店や会社、
現役の銭湯も目に入ります。
近世~近代の様々な風景、雰囲気あるお店やおうちばかりで、
文化的にも、残し、活かしてほしい風景でした。




この日を待ちわびた地元の大林作品ファンはもとより、
シンポジウムで監督の講演を聴いた方も多いのでしょう。
事前申込みで早々定員に達し締切となった
ようです。(キャパの限られた映画館で小生も滑り込みセーフ?)

開場時刻となったので受付に。
幸い一番乗り(笑)で最前列の席を確保、19回目(汗)の鑑賞後、
監督のお話を間近で聞くことができました。

この日の大林監督は、群馬の高崎映画祭での「その日のまえに」上映で舞台挨拶、
桜咲く春の上州路、イベントのハシゴです。



続く

しげぞー  


2009年04月23日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(3)各地映画祭巡り

トークin深谷シネマ 第1話:<その日の(2ヶ月半)まえに>

4/5(土)埼玉県深谷市の深谷シネマ・チネフェリーチェさまで
「その日のまえに」上映にあわせて大林宣彦監督のトークイベントが開催されました。



深谷は埼玉県北の街。名物といえば何といっても<深谷ねぎ>。
見た目もがっちり立派&「これぞねぎ!」という香りも芳しく、
一流料理店でも主役を引き立て自ら主役を張ることもでき
引っ張りだこなのが納得の「絶品です」。

町を少し離れると上毛の山々を背景に田園風景が広がり、
冬は赤城山から吹き降ろすからっ風「赤城おろし」が強烈です。
古くから北関東の文化圏で源平時代は地方武士の武蔵七党が勢力を広げ、
その後も上杉氏の居城・深谷城の存在や中仙道の宿場町、
そして農業や養蚕の盛んな近郊からの農産品の集積地としても栄えました。

明治に入り近代日本の産業の基礎を築いた偉人の1人、
澁澤榮一氏も深谷出身です。

近代建築の代表的建材レンガを製造する「日本煉瓦製造」では
東京駅丸の内駅舎の赤レンガも作られ、
その歴史をあらわすべく、1996年深谷駅も赤レンガの
ミニ東京駅風の駅舎に建て替えられました。



市内には時代の特徴がみられる趣きある建物や風景が数多く残っています。
最近はフィルムコミッションさまの働きかけもあり、
映画やドラマの撮影も活発に行われています。
映画に対する地元の皆さま意識も高く、
昨年5年目となった「花の街ふかや映画祭」はすっかり定着、
更に盛り上がりを増しています。



自分たちの「ふるさと」「まち」を愛し盛り上げる活動を応援しようと
全国を精力的にまわられる大林監督。
トークイベントの2ヶ月半前の1/17(土)、
深谷市民文化会館でのシンポジウム「文化芸術による創造のまち」で
基調講演をされました。
シンポは地元深谷の方々がわが街の魅力を見つめなおし、
それを生かしアピールしてゆく様々な活動の報告会。
各NPO団体の代表者の方々が取り組みについて報告を行います。
(著作権や肖像権の兼ね合いもありますので内容は割愛し、
大林監督のご講演概要のご紹介にとどめます^^)



映画作家・大林宣彦監督の演題は「まちのこしの時代を迎えて」。
これまでの講演やトークショーでお話しの内容と共通する部分もありますが、
「まちおこしとまちまもり」
「文明・経済による物質的豊かさ追求と、文化・芸術による心の豊かさの追求」
などについて持論を展開されました。
にこやかに、時には静かに眼を閉じながらやさしく語りかける監督でした。

場内大きな拍手。
続いて主催者側から<お礼>の贈呈。
舞台袖から花束・・・
いいえ緑色の植物が。
花束ならぬ「ねぎ束贈呈」!
綺麗にデコレーションされた
深谷ねぎの束が女性スタッフから大林監督に手渡されます。
監督もねぎ束を笑顔で高く掲げ「恭子さんや、こんな立派なねぎ束もらったよ♪」。



続いてパネルディスカッション
「深谷の魅力をどのように発見し高めていくのか」
パネラー各位がそれぞれの立場から取り組みについてコメント。
熱気あふれるやりとりに口を挟まず、静かに聞いておられた監督、
司会の方から「大林さん、最後にひとことお願いできますか。」と促され、
マイクを手に「では・・・」と口を開きます。
「転校生さよならあなた」の生まれる1つのきっかけとなった
長野・Eさまたちの「50年後の・・・」のエピソードや「路地裏に流れる生活の智慧」
「文明・経済の限界と文化・芸術の重要性」など引き合いに30分近くスピーチ(笑)。
故郷・尾道や大分臼杵については勿論、作品数だけならば1作の長野のこと
にも言及されていたのが印象に残りました。



続く

しげぞー  


2009年04月22日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)各地映画祭巡り

おのみちまちあるき。。。第31話「坂での暮らし。。。」 後篇

おのみちまちあるき。。。第31話「坂での暮らし。。。」 後篇

なにより、どんなに疲れていても、大きな荷物を持っていても、
坂を上らなければ家に帰れません。
足腰の弱った年配の方が住み慣れた家を離れざるをえず、
坂道に空き家が増えるのも分かります。
坂道散歩を日課にしているガイド犬・ドビンちゃんも、
最近はよる年波で?上り坂では息が上がりがちです^^;。

そんな坂道でなんとか人力以外を活用しよう、と皆さん考えてきたのでしょう。
普通の石段と一緒に、ある場所では横、またある場所では
真ん中にこのようなスロープが設けられています。
(大通りを渡る歩道橋に見られるアレです)





でも、いくらスロープがあっても自転車で駆け上るのは至難の業。
「転校生」で陸橋を「うぉーっ!」と駆け上がった
カズオこと小林聡美さんも毎日ではうんざりでしょう^^;。
そこで登場するのが原付バイク。
尾道の坂道を歩いていると「え、こんなところまで?」
というかなり斜面の上のほうでもバイクとすれ違うことがたびたびあります。

以前、日本テレビ系の番組「鉄腕DASH」で、TOKIOのメンバーが「坂の上から、
自転車こがずに海まで行けるか?」という実験の第1回をしたのも尾道でした。

ただでさえ作られた坂道や路地が迷路のように複雑にのびる千光寺山の南斜面、
全てにスロープがあるわけではありません。
その中でスロープをたどって上まで行くには、右へ左へ、
路地マップが頭にないとなりません。
坂道で暮らすにはそういうことも覚えていないといけないのです。。。
知力体力・・・やはりタイヘンですね。
でも、それを差し引いてもそこに住みたいと思わせる魅力があるのも事実です。
スロープは千光寺山の、ほとんど頂上直下まで続いています。

それに、坂道は人間だけのものではありません。
犬や猫も使っているのです。
ほら、視線を低くしてよく見ると・・・足跡スタンプが♪
セメントの固まる前に歩いちゃったのね^^;。




しげぞー  


2009年04月21日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき

おのみちまちあるき。。。第31話「坂での暮らし。。。」 前篇

おのみちまちあるき。。。第31話「坂での暮らし。。。」 前篇

何度も書いてきましたが、千光寺山南斜面はかつて聖域で
寺社が東西に数多く立ち並び、それらを結ぶ路地が
「古寺めぐりコース」として整備されています。
駅から土堂小学校の脇を通り東に向かい、最初に到着するのが持光寺。
参拝客が粘土の塊をぎゅっと握り、目鼻をつけて自ら形作った仏様を、
ご住職が窯で焼き上げ後日郵送してもらえる「にぎり仏」で知られています。

持光寺の石門はまるで成型コンクリートのようですが、
実は37枚の花崗岩を組み合せた全国でも珍しい「石」の山門。
尾道石工の名作のひとつです^^。



持光寺門前に珍しい井戸が残されています。
その名も「二階井戸」。
よい水が出る尾道とはいえ斜面に井戸を掘るのはたやすいことではありません。
上水道が整備されているわけでも、電動ポンプがあるわけでもない時代、
坂の上で生活するうえで水の確保は切実な問題でした。
この井戸、井桁から覗き込むと水面はずっと低い、麓と同じレベルにあります。
面白いのは、この上屋とともに、井筒の中ほどにも水を汲む窓が開けられていること。
1本の井戸を、坂の上と坂の中腹、共同で使えるようにしたものなのです。
坂道に暮らした先人たちの知恵が垣間見られます。




案内板にもそういった説明が書かれています。



坂で暮らすのに水は欠かせませんが、生活すれば当然・・・
インプットとともにアウトプットも避けられません(笑)。
ゴミは昔ながらの天秤棒や、小型の無限軌道(キャタ○○は商標名^^)つき運搬機で
収集しますが、問題は・・・。
平地の商店街ですらようやく下水道工事が始まったばかり。
坂の家々はもちろん、昔ながらの自然落下のお手洗いです。
坂の右側に伸びる長いホース。
そうです。
都市圏では最近あまり見なくなった「あの」処理車が大活躍中なのです。



坂の下の国道に強力吸引ポンプを備えた車が停まり、
10ミリ以上の長いホースを何本も連結して総延長100ミリ以上!
はるか山の上のほうから「回収」するのです。
バラエティ番組や宴会芸などで長いストローでジュースを飲む出し物がありますが、
スケールは桁違い!
「いつまでも変わらない吸引力」が売り物の、あのサイクロン式掃除機も真っ青、
さぞやパワフルなのでしょう^^;



続く

しげぞー  
タグ :尾道


2009年04月20日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき

チベットウィーク

昨年の北京オリンピックの長野聖火リレーから一年。

世界の動きにこの山国の長野市も揺れました。
チベットの現在の状況に多くの方が関心を示されました。

チベットウィークとしていくつかの映画が上映されます。
以下実行委員会様の最新情報を転記させて頂きます。

ダライ・ラマ法王は昨年11月の講演会において、
「日本人としてどのようなチベット支援が出来ますか」との問いに対し、
「まず、皆にチベットの状況を知ってもらいたい」とのお言葉を述べられました。
私たちはこの法王の思いを胸に、「長野聖火リレー」から
丁度一年の「長野」でチベットの現状を多くの方に知ってもらえるイベントを開催いたします。

チベットウィーク2009春 in 長野実行委員会

最新情報 ←詳しくはこちらをクリック下さい☆

『雪の下の炎』上映後トークショー開催決定!
ゲストはチベット民族学者の貞兼綾子氏です。(2009/4/15)
出展に飯島俊哲師(上田市海禅寺)+岡澤慶澄師(長野市長谷寺)、
野田雅也氏(フォトジャーナリスト)を追加しました。(2009/4/15)

上映日時:4月26日(日)17:00~ 上映後トークショー
ゲスト:貞兼綾子さん(チベット民族学者)
会場:長野市生涯学習センター
TOiGO WEST 4F大学習室1
(長野市大字鶴賀問御所町1271番地3)
入場料:¥1,000

  


2009年04月19日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)映画上映

第23回高崎映画祭 その④



昨年、『転校生さよならあなた』上映の折、大林監督が教壇に立つ
短期大学まで訪ねて来られたのが、茂木さんとの最期となったそうですが、
茂木さんが亡くなられた日は、
ちょうど北海道・芦別の映画学校で『その日のまえに』を上映していたとき、
そして葬儀もまた、監督のふるさと尾道で
『その日のまえに』の上映と舞台挨拶があった日と、
最後まで“不思議な縁”で結ばれていたそうです。

昨年は、残念ながら高崎に駆けつけられなかった。
そして、茂木さんの愛した映画祭、
茂木さんの愛する皆さんの顔が見たくなったので、急遽高崎に来た。

この『その日のまえに』は、プリントが10本しかない小さな小さな映画です。
でも、昨年公開された約500本の日本映画の中からこの作品を選んでいただき、
大切に持ち回って全国いろいろな場所で上映してくれている。
自主映画に携わる者にとって、上映されるときは必ずその場に行って、
お客さんと握手をし、話をすることが習慣となっている。
だから、観てくださる皆さんの顔を直に見て、「ありがとう」を伝えたい。

これから先も、“その日”が来るまで映画を愛し、創り続けていこうと想う。
80、90、100歳の新人になっても、頑張っていくので、
皆さんどうぞよろしくお願いします。と力強く宣言し、
この日のトークショーを結ばれました。



尾道『転校生』から25年後、長野で『転校生さよならあなた』が生まれました。
これから25年先にも、
監督がお元気でまた新しい『転校生』と出逢えることに期待を込めつつ…

この日、ロビーでは即席のサイン会も実施。
また、帰りがけにはロビーで、一昨年の讃岐映画祭以来となる恭子さんと再会。
りょうのことは覚えていらっしゃらないかな…と
思いながらご挨拶をさせていただいたところ、
「あらっ、もしかして。やっぱり」と、覚えていただいていました(涙)。
特徴的なその髪型をこれからも変えないでね(笑)とも。

さて、この日の大林監督は、本ブログで既報の通り深谷との掛け持ち。
恭子さんのお話しでは、高崎来祭は、一週間ほど前に「日曜なら行けるよな!」と
突然思い立ったように監督自身が決められたそう。
「2箇所は大変ですね」と話すと、「深谷は、帰り道の途中だから大丈夫」と
トークショー終了後、お車で深谷に向かわれました。

第23回高崎映画祭事務局総合ディレクターの志尾睦子さんは、
映画祭公式ホームページのなかで、
「作り手が素晴らしき映画を世に送り出すならば、
それを受け手が体力と時間と人生を使って観なければ、
また新たな映画との出会いはないような気がします。
作り手が観てもらいたいと願う素材で、環境で、
私たちが映画を観ることに未来があるのだと思っています。
また、暗闇の中に足を踏み入れ、知らない人と肩を並べ、
投影された光を見つめその世界に埋没する、そういった非日常的な空間まるごとを、
私たちはこれからも大事にしていきたいと思います。
そこには人生を豊かに彩る映画との出会い、
沢山の人々との出会いが沢山待ち受けているはずです。」
と述べられています。



人間が人間たりえるのは“想像する力”にあるとりょうは考えます。

『ウソからでたマコト』(大林宣彦監督談)

人が産みだした映画たちにも、たくさんの作り手の“夢”や“希望”が込められています。
願わくは、純白のスクリーンに舞う、その“想い”たちが、
受けとめた人たちの手によってひとつでも多く“現実”となることを祈って…

高崎映画祭スタッフの皆さま、今年も素敵な映画祭をありがとうございました。

それでは引き続き、しげぞーさんによる『深谷シネマ(チネ・フェリーチェ)』レポートに
バトンタッチします☆

りょう


追記 茂木さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。
茂木さんは隣の県に誕生したまだまだひよっこの
みすずかるしなのNAGANO映画祭を暖かく見守ってくださいました。

これからもどうぞ見守っていて下さいね。
いつかご恩返しができますように。

ひがしざわ  


2009年04月18日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)未来に紡ぐ

第23回高崎映画祭 その③

私が重松さんに連絡した時点で、既に8社からのオファーがあったが、
なぜか主演候補は同じキャスティングだった。
今どきこういう映画を創ろうとすると、役どころが決まってしまっている。
もちろん、こういった人たちを起用すれば、300館の大ヒットもあり得るかもしれない。
だけど、自分はそういう映画づくりはしたくない。

永作さんについては-
出演してくれないだろうと思いつつも、恭子さんが
生まれて初めてタレントプロダクションに乗り込んでくれた。
タレントは、長い髪それ自体が商品だから、CMやらドラマの契約やらで、
普通は切れないのだけれども、恭子さんがお願いしたら
彼女はプロダクションの社長との相談なしに自分で決断して短くしてくれた。
実は、プロダクションから後でちょっと怒られたんだけれどもね。
また、4キロもの減量をして、他の仕事に影響が出るほど
役づくりを徹底して撮影に臨んでくれた。
それぐらい映画に懸けてくれて嬉しかった。


(映画祭公式パンフレット)

ここで、監督がある日タクシーに乗ったときの運転手とのエピソードが紹介され。

監督は、ジョニー=デップを知っていますか。
彼は映画を観にいくたびに、ジョニー=デップではないんですよ。
だから、今回はどんな変化を魅せてくれるのかが楽しみで、毎回映画を観に行く。
だけど、日本の俳優は、どの映画でも同じ顔をしている。
戦争映画なのに、髪を切らない役者までいる。

そこで、日本のジョニー=デップは誰かなぁと監督が考えていたとき、
ふと見たテレビでちょうどナンチャン(南原さん)がスポーツの
解説をしていたのが目に留まった。
そこで、「これだ!」と思い恭子さんに相談したら
「いいわね」とのひと声で主演が決まった。
大林組の現場は、原則「かけもち禁止」だけど、
それなら、とナンチャンはスケジュールを空けてくれたそうです。

ナンチャンは、ひろべえ(永作さん)がいなくなった後の10日間は、
普通なら撮影が中止になるくらい本当に消耗していた。
また、撮影の2ヶ月間は、家族と離れて取り組んでくれた。
そういった姿を撮れば、それだけで名演技になる。
だからこそ、演技指導はいらない。
そのままドキュメンタリーのように撮影すれば良かった。

今回の撮影では、テストなしの一発本番が多かったと伺っています、と司会者。



さて、ここでこの日大林監督が高崎映画祭に
飛び入りで来祭された理由が明かされます。

昨年11月15日、この高崎映画祭の立ち上げに尽力された
シネマテークたかさき総支配人で高崎映画祭事務局代表の
茂木正男さんが急逝されました。

大林監督は、1987年の第1回目から『野ゆき山ゆき海べゆき』で来祭されるなど、
高崎映画祭とは長く関わりを持たれています。

90年代、映画祭は映画館とバッティングするため、
映画館のない場所以外では開催できなかったそうです。
だから、初めて声をかけられた際は、本当に出来るのかなぁと半信半疑だった。
だけど、高崎に来て、映画祭の会場で映画館の館主が
箒を持って掃除をしている姿を目の当たりにして、非常に驚いた。
茂木さんの「ここは、映画館も映画祭も一緒にやるんです」との言葉に、
これからの映画祭はこうだな。
映画館主も一市民も、同じ立場で映画を愛する姿に、
監督も涙が止まらなかったそうです。

続く

りょう  


2009年04月17日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)未来に紡ぐ

第23回高崎映画祭 その②

そして、司会者の「脚本では、クラムボンと宮沢賢治が特に印象的だった」という話に
監督は

7編全てを2時間に詰め込んだら本来映画にならない。
でも、昔はそういう映画がたくさんあった。
初めは訳がわからず、どうなるのかと思って観ているうちに、
最後には一つにまとまっていく。
そんな映画は、今どきなかなか作れない。
なぜなら、テレビが主流の現在、訳がわからないとチャンネルを代えられてしまうので、
いつでもストーリーは理路整然としていなくてはならない。
でも、今回は「訳がわからないけど、2時間たったら分かる」昔のような映画を創りたかった。

そこで、脚本の市川森一さんには、
「テレビ局で書いたら二度と仕事が来ないような、映画らしいシナリオを」とお願いした。
そうしたら、原作小説ではわずか17行しかない
宮沢賢治の「永訣の朝」で7編をまとめてくれた。
原作に登場するギター弾きの街頭ミュージシャンを、
宮沢賢治の妹である“とし子”と名前を変え、
チェロで「永訣の朝」を弾き語りさせた。
また、主人公の妻の名前も和美から“とし子”に変えた。
これには、さすがに小説の主人公の名前を変えるのは申し訳なかったので、
重松さんに伺ったところ、快諾してくれた。

ただし、「大林さん。いまの40代にとし子なんて名前の人はいないですよ」
とアドバイスを受けたそう。
そこで、親父が宮沢賢治の大ファンで勝手に娘の名前を付けた、という設定にした。
それが、孫から
「おじいちゃんが、“とし子”と名づけたからママは死んでいくの?」
につながった。
娘の死を描くこと。
ましてや、それで観客を泣かせてお金を儲けようとしたらバチがあたる。
監督自身、実はこの作品を描くのが初めは怖かったそう。
だけど、「親父のひいては自分自身の贖罪の映画」にしたら、
自分の映画として創れるようになった。
結果、泣きわめくシーンなし、歌っている間に死んでしまう、
余計なことで泣かせない映画ができた。


(上映会場となったコアホール)

司会者の、大林監督の作品は、前回の『転校生さよならあなた』もそうだったが、
その瞬間をふっと外して描くことによって、逆にむしろ強烈に胸に響いてきます、
との感想を受けて

「映画の面白さ」とは「不思議なもの」にある。
考えながら、分からないからこそ、皆で語り合いながら観れる。
かつての映画は、観るたび語るたびに違う印象を受けた。
今の映画は、一回観てわからせないといけない。
これでは、映画としての深みが足りない。

『その日のまえに』のコンセプトは、まず「不思議なもの」。
不思議だけど、観客が考えたいこと、見たいことをそのままやってみようと創った。

例えば、最後にとし子が戻ってくるシーン。
普通なら怒られる。
ホラーになってしまう。
でも、観客の夢や願いをスクリーンに登場させるのが映画の夢。
死と生を映画として描いてみたい。
だけど、これは冒険だった。編集してもうまく繋がらないし。
でも、恭子さんの「繋がらなくても良いから、最後にいれておいて」のひと声で決断した。
“不思議な映画”だからこそ、一生語り合ってほしい。
それが、映画の力・深さなのです。

また、話題は冒頭の“かもめハウス”におよび…。
『その日のまえに』を創るにあたり、スタッフたちには
「今度の映画は、誰にも誉められないよ」
と言うことを覚悟してもらいたいと思って、
「今度はHOUSEをやるよ」と伝えた。
そして、現場に行ったら、あの“かもめハウス”があった。
パロディーと言うのは、監督がやるものではない。
スタッフが勝手に楽しんでやってくれるもの。
自分は、それをありのまま作品に映すだけなのです。


(アヒルと鴨の…)

大林監督の映画を観ると、誰かのことを想ったり、誰かと語り合ったりしたくなる。
心に残る映画ばかりですね、と司会者。
続いて南原清隆さん、永作博美さんのキャスティングについての話にうつります。

続く

りょう  


2009年04月16日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)未来に紡ぐ

第23回高崎映画祭 その①

3月28日から4月12日まで2週間にわたり開催された第23回高崎映画祭。
期間中は63の作品が上映されました。
5日(日)には大林宣彦監督の『その日のまえに』も上映。
今年は残念ながら授賞式には参加することができませんでしたが、
5日は大林監督も急遽来祭されるとのことで、
りょうにとって5回目の『その日のまえに』鑑賞と併せて、今年も高崎までお邪魔してきました。



本日は、大林監督のトークショーの模様を中心に、
高崎映画祭レポートをお届けさせていただきます。

この日降りた高崎は、穏やかな気候に包まれ、昨年に引き続き訪れた高崎城趾公園では、
満開の桜が出迎えてくれました。
公園には、シートを敷いたたくさんの花見客も。
りょうも映画鑑賞前にしばしお花見を…



『その日のまえに』の上映は、午後1時半から。
会場となった高崎シティギャラリーには長蛇の列ができていました。



映画は、観る度に毎回新しい発見があるのですが、5回目の鑑賞となる今回は、
本ブログで現在『おのみちまちあるき』連載中のしげぞーさん探しを (笑)。
実は、『その日のまえに』には、この『転校生さよならあなた日記』にも
たびたび登場している“チーム長野”の皆さんがエキストラとして参加しているのです。

映画本編上映後、いよいよ大林監督が映画祭スタッフの紹介に促されて登場。
場内に入ると満員の観客に向かって、手を振って笑顔で挨拶をされたあと、
司会進行役の映画祭スタッフと固い握手。

まずは司会者から、『70歳の新人宣言』について聞かれ。

自分が子供の頃は戦争の時代だった。
あの頃の若者たちは、24~5歳が“その日”だった。
自分も、24~5歳で死ぬと思って生きてきた。
だけど、戦争が終わって71歳まで生きることができた。
いま振り返ると、その頃の先輩たちの絵や文章は、見事に美しく、完成されていた。
それに比べて、自分は本当に真剣に生きてきたのか、問い直してみた。
今は幸いにも長寿の時代。
だから、もう一度人生をやり直そう、今から24~5年間一生懸命に生きて、
彼らに負けないような映画業をやっていこうと決意して、新人宣言をした。

70年の間で、映画も変わった。
それは、良い面・悪い面の両方ある。
映画評論家の故淀川長治さんは「映画は学校である」とおっしゃった。
その昔、私たちは映画から生きる術を学んできた。
自分は、70年の経験を活かしながら、子供の頃の映画の素晴らしさを、
いまの若い人たちに伝えていきたい。
そして、新人監督のつもりで、もう一度1960年代までの良い映画を甦らせたい、
との想いを込めてこの作品を創りました。


(高崎シティギャラリー全景)

続いて司会者から、今回の作品は、一本の映画として7つの
各エピソードが違和感なくまとまっていること。
また、細かい部分では、冒頭の「かもめハウス」などの遊びもある。
そこで、この脚本が出来あがるまでの経緯を教えてください、との質問には。

4年前に原作が出たとき、自分も直ぐに読んだ。
そして、これは自分が映画化しなくてはと思い、重松清さんに手紙を送った。
ただ、今は小説が書かれると、直ぐに映画化の権利も決まるご時勢。
ここ20年間は、自分がやりたいと思う作品も手がけることはできなかった。
だから、今回もダメだろうと思っていたところ、重松さんから連絡が入った。
重松さんの心の中では、映画化に際し、
①7編全部を映画にして欲しい。
②泣きの涙の難病ものにはして欲しくない、との思いがあったそう。
葬儀の遺影が胸を張って誇らしげなのは何故か。
それは、悲しい・悔しいだけでなく死も生の一部であり、
むしろ故人がちゃんと生きたことを讃えて欲しいから。
生きている者が、生命を大事にしながら、その一瞬を生きている。

「死を知るが故、“その日”を知るが故に、
今を一生懸命に生きる人たちの元気・勇気を描きたい」
との願いが重松さんにはあった。
しかし、自分以外に8社から映画化のオファーが来ていたが、
他は全て後半3編で2時間の映画にしたいとの話しだった。
そこで、「大林監督なら」という重松さんの期待と、
実は、切手を貼らずに切手の絵を描いて手紙を投函したんですよ(笑)。
だから、自分なら明るく楽しい映画にしてくれるんじゃないかと
重松さんも思われたんじゃないかな、と子供のような無邪気なで笑顔で語られました。

また、映画化にあたり、重松さんからは、
「いま映画化すると、原作人気に便乗した大ヒットを狙う映画のようになる。
だけど、3年経てばみんな小説のことは忘れる。だから、3年後に映画化してみては?」と
アドバイスをいただいたそうで、実際、3年目にあたる昨年に公開となった訳です。

映画を観た重松さんからは、小説を書いているときは、もちろん泣かないけど、
映画を観て最後の30分は涙が止まらなかった。
それも、悲しいからではなく、嬉しくて涙が出た。
映画では、逢わせてあげたいと思っていると、スクリーンに出てくる。
それは、小説ではできない。
また、鏡の前でとし子が泣くシーンには、悲しいだけではなく、生きる勇気がある。
「映画から、もう一度小説を書きたいと思った」との感想をいただいたそうです。

それに対し、大林監督は「今回は小説家と映画作家の良い出逢いがあったんじゃないかな」と
嬉しそうに語られていました。



続く

りょう  


2009年04月15日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)未来に紡ぐ

おのみちまちあるき。。。第30話「よそ見の??」 後篇

おのみちまちあるき。。。第30話「よそ見の??」 後篇

本堂北側の小路をまたぐ渡り廊下も、おタマちゃんが過ごした
開かずの間に続くのぼり階段として登場しました。
庫裏から不老閣(貴賓室)への通路で、
天寧寺の境内が大きかった時代の名残です。
写真右側に見える階段を登りきった踊り場、
映画では風流な三日月の形にくりぬいた窓がつけられて、
寂しげな表情の少女が。
千光寺山のお屋敷には、多門亭はじめそこかしこに風流な窓が見られます。




この懐かしい写真、「あの夏の日」が全国に先駆けて地元尾道の桟橋に
停泊した客船「サウンド・オブ・セト」の船室を改造した
<SOSシアター>で公開された時、
船内に展示されていた弥勒さまです。
病のため長恵寺の離れで過ごさねばならなかった
薄幸の美少女・おタマちゃんの表情を生き写しにしたような優しいお顔です。
(おタマちゃんを演じたのは、今をときめく・・・「篤姫」さまですね^^)




元・宇高連絡船「土佐丸」だったこの客船、
常石造船で改造されて瀬戸内海クルーズに使われていましたが
(映画「ふたり」にも、常石造船の運営していた
マリンパーク境ケ浜に停泊する姿が残っていますね。)
今もインドネシアで余生を送っているそうです。当時は、向島の桟橋に、
「あした」の主役である元<呼子丸>も係留されていました。




おっと、脱線しました。
天寧寺の五百羅漢も有名です。
本堂左手、枝垂れ桜の奥に羅漢堂があります。

526体の羅漢像は、江戸時代から明治にかけて1体また1体と
信仰のあつい人々が寄進したものだそうです。
500体以上あるだけに五百羅漢はどこでも個性豊かですが。。。
こちらの羅漢たちも例外ではありません。
よーくご覧下さい。

1人だけ、後ろを向いている羅漢様がいます!さあ、どこだかわかりますか^^。




しげぞー  
タグ :尾道篤姫


2009年04月14日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき

おのみちまちあるき。。。第30話「よそ見の??」 前篇

おのみちまちあるき。。。第30話「よそ見の??」 前篇

千光寺に続く参道の東に、大きな本堂を持つ別のお寺があります。
天寧寺です。



現在でも境内は広いのですが、かつては今よりも更に広く、
千光寺山中腹まで、全てこの天寧寺の寺領でした。
(麓からみると、斜面と空の境目あたりに塔がそびえ、
実質、頂上を除く斜面の大部分がこのお寺さんに見えたことでしょう。)
ロープウエイに乗った時、斜面に見える三重塔<海雲塔>は天寧寺のお堂です。



ロープウエイ乗り場脇から北西方向、千光寺道中腹に向かってのびる
緩やかな坂道は「天寧寺坂」と呼ばれています。

某ビールのCMで矢沢永吉さんが贈答セットを抱えて歩き、
某携帯電話のCMでは白○家のお父さんが「まだ見ぬタダ友」を
探していましたね^^。

(映画「ふたり」では万里子を家から帰る実加と真子が歩いていたのもここ。。。

「倒産だよ。分かるんだ、私・・・」)



天寧寺は花のお寺でもあり春には桜が咲き乱れます。
特に「枝垂れ桜」は見事で、カメラマンで賑わいます。
桜の後には牡丹がキレイです。




天寧寺といえば・・・「あの夏の日とんでろじいちゃん」で主人公たちと所縁が深く、
マドンナ・ミカリの自宅である架空のお寺<長恵寺>のロケ地となりました。
小指のなくなった弥勒さまが安置され、
賢司郎おじいちゃんの葬儀を行った本堂はここ天寧寺。
今も正面向かって右側には弥勒様の写真。
(左側には、長野・善光寺でもおなじみ、
体の悪いところを治してくださるおびんずるさま像が。
この映画では、山門からの石段は尾道市北部山間部にある摩訶衍寺(まかえんじ)、
庫裏の入り口は浄土寺で撮影されました。

続く

しげぞー  
タグ :尾道


2009年04月13日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき

ドキュメンタリー映画「小三治」上映会

まだちょっと先ですが、特別企画の映画上映会がございます。

最近映画館さんでも映画の上映以外にスポーツ中継をしたり、
音楽のライブ、演劇の舞台を上映する事が多くなってきました。

NAGANO映画祭でも長野松竹相生座さんのスクリーン前で
立川志らく師匠をお迎えして落語を披露していただきました。
そして、今度は同じく相生座さんのスクリーンに落語の世界が広がります。

粋で強いこだわりをもつ小三治師匠の
ドキュメンタリー映画「小三治」上映会があります。
一日のみの上映なのでお見逃しなく!
現在、長野松竹相生座さんの窓口にて、前売券好評発売中!

2009年 5月15日(金)
 1回目 午後2:00/2回目 午後7:00 


  前 売: 1,000円 <税込>

  当 日 :一般:1,300円/シニア・学生:1,000円

  主 催:オフィス・マユ 様公式サイト ←詳しくはこちらをクリック下さい☆

  
タグ :小三治


2009年04月12日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)映画上映

蓮佛美沙子ちゃんが日本フィルと共演!

今年晴れて大学に合格された美沙子ちゃんですが、意欲的にお仕事に取り組まれていますね。

来る5月9日に横浜みなとみらいホールで開催される
日本フィルハーモニー交響楽団様の
第247回横浜定期演奏会にて、美沙子ちゃんが
武満徹作曲《系図》の語り手としてご出演されます。

どのように豊かな作品世界を表現されるのでしょうか。
またしても新しい美沙子ちゃんに出会えそうです。

詳細、チケットのお申し込み等は
日本フィルハーモニー交響楽団公式サイト 
演奏会情報ページ ←こちらをクリック下さい☆

  


2009年04月11日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(2)映画関連