おのみちまちあるき。。。第49話「これが噂の・・<↓山>。」

おのみちまちあるき。。。第49話「これが噂の・・・<↓山>。」

お寺なのに鳥居?鳥居は神社のシンボルでは・・・という「?」がつきますが、
これが古来の日本の信仰を表す1つのかたちなのかもしれません。

ただ1つの「絶対神」がいて、従うか逆らうかで
正邪・善悪を判断する「一神教」文化と異なり、
日本では、自然現象から草花、道具にまでこの世界に存在する
全てのものに「八百万の神」が宿るという、
個性尊重の「多神教」文化が根付いていました。
七五三やお宮参り、正月の初詣では神社におまいりし、
教会で結婚式をあげ、人生の最後にはお寺でお経を上げてもらい・・・
こんな混沌とした何でもあり、な発想は、
よいものはなんでも吸収し、「みんなちがって、みんな、いい」
(By女流詩人:金子みすゞさん)な発想と文化を持つ日本人ならではでしょう。

そういう発想のなかでは、日本古来の神も、
大陸から伝来した仏もそれほど違いがなかったと。
(人間が亡くなって仏になり、神になるという発想は、一神教文化ではありえないそうです。
神は神、人間はどう頑張ってもその忠実な弟子であり使徒と。)



深山幽谷で俗世界を離れ修行をする山伏は仏教ですが、
古来、山を神として崇めた文化と融合しているところもあるのでしょう。
ここ瑠璃山も、仏教的には奥の院があり「極楽浄土」なのですが、
神道的には山そのものがご神体ということになります。

鳥居の手前にあった「心」と書かれた石。
「心」と書かれていた裏側には
「↓山」。

赤ペンキの単なる落書きではありません。
よくみれば少し彫り込まれて、そこに色を載せてはっきりさせていることが分かります。



これこそ、山そのものが昔から<ご神体>であった名残でしょう。
(2階建ての家の1階に神棚があり、階上にも部屋がある場合、
神棚上の天井に<空><天>と書いた紙を貼ります。
神様よりも上に人間がいては畏れ多い・・・、ということで、
その上は別世界、と宣言するようなものです。

ここでは逆に、山頂に行くにはどうしても「神様」の上を人間が歩き、
足でご神体を踏みつけてゆくしかないので、「ここから下は山:聖域⇔上が人間界」
と宣言しているのでしょう。



鳥居を過ぎて少しゆくといよいよ不動岩。
壁面に不動明王のお姿が彫り込まれています。
この場所、断崖絶壁に近いです。へたに崖下を覗きこむと足がすくみます。
よそで作って持ち込んだわけではなく、まさにここで彫ったのです。
尾道石工の高い技術と度胸には脱帽するしかありません。
(高層ビルの頂上近くで作業するようなもの。
平地で平静な精神状態ならばできることも、そんな高所で力を100%発揮するのは
並大抵のことではないですよね)



不動岩の上部、右奥に手すりがみえますが、
岩の下からまわりこむと岩の上にあがることができます。
映画「ふたり」で実加が神永青年のプロポーズをお断りした場所。
足はすくみますが、絶景が眼下に広がり、
ここまでのぼってきた疲れもすっかり吹っ飛んでしまうのでした。
(この風景も、自然の造形と人間の営みが見事に融合したもの。
それを、はるか天上の聖域から俯瞰している錯覚まで覚えるのです^^)




49回(!)に渡って「転校生 さよならあなた日記」の貴重なスペースをお借りし、
大林監督作品つながりの尾道について一貫性もなく書き綴ってしまいました。

映画とともに「まちあるき」「路地の魅力」についても
話題にしたブログなのでぜひ、
というひがしざわさまのお言葉をいただき、
気軽に始めたこのシリーズ、
こんなに大作になるとは思ってもおりませんでした。

思いつくまま乱筆・脱線ばかりの尾道紀行、
長きにわたりおつきあいいただき、
ありがとうございました。
そしてなにより、記事の掲載にあたって貴重なスペースを
ご提供いただいたひがしざわさま、感謝です。

信州長野も歴史あるエリア。
歩き回ればちょっとした町の風景、小さなものにも同じように
歴史やいわれがあることでしょう。
ぜひ、「みすずかる・・・信州ながのまちあるき」を読んでみたいものです♪
(それは全国どこの土地や町にもいえることです。それぞれの土地土地について
改めて見直すことで、魅力に気づき愛着も湧いて活性化につながると思います)

え?49話とは中途半端、
もう1話で50話完結!
どうしてしないのかって?
御袖天満宮の石段に1箇所だけ継ぎ目があるのと同じ、
完全なものはあとは滅びるだけだから・・・の物まねではありませんよ。

どこの街の風景も、1人1人、それぞれに見え方が違うのです。
そう、もう1話は、ぜひ皆様が実際に訪れて、ご自分の目で見つけてください^^。
こうして街の物語はまた始まるのです。

(完)

しげぞー  


2009年07月06日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(1)おのみちまちあるき

おのみちまちあるき。。。第48話「いざ、お山に。」 後篇

おのみちまちあるき。。。第48話「いざ、お山に。」 後篇

橋を渡るとまもなく本格的な山道に。
かなりの傾斜です。頂上近くまでこのような風景が続きます。
この先に目的地があると知らなけば、
なかなか奥へ進んでゆく「勇気」が出ませんね^^;。



沿道には33体の石仏が立ち並んでいます。
地蔵菩薩や如意輪観音菩薩、十一面観音菩薩に、先回ご紹介の六地蔵様など。
お名前とそれぞれの真言が書かれた看板が添えられています。

真言とは大日経など密教の経典にある真実の言葉という意味で、
仏の言葉を言います。
真言宗の「真言」もこれに由来。
真言は音が重要なので、翻訳せず梵語(サンスクリット)をそのまま音読します。
そういえば「日限地蔵尊」にもお地蔵様の真言が書かれていました。
確か・・・おんかかかびさんまえいそわか、でした。)

立ち並ぶ観音様、これが「観音のこみち」という名前の由来です。
無事に登頂できるよう、見守ってくださっているような、フシギな気配が漂っています。
(うっそうと暗いものの、コワくもなくて、むしろ心強く落ち着くのです)

信仰心や宗教的な背景などが特になくとも、自然と、1体ずつ通り過ぎる時には
感謝の気持ちが湧いてきて、手を合わせながらのぼってゆくことになるのでした。。




歩くことおよそ20分、ようやく空が見え、開けた場所にやってきました。
尾道の町が一望できます。
まだ8合目ですが、山麓から見えた1番上近くまで来たのですね。
林の中は山道にありがちな丸太の階段でしたが、ここまで来ると石材を組み合わせた石段や、
巨石の一部を階段状に削った場所が増えてきます。

鳥居が見えてきました。




鳥居の側の岩に「心」と刻まれています。
この鳥居が浄土寺奥の院の参道の入り口になるのです。
心を洗い、参拝しましょう。(え?お寺なのに鳥居?)

しげぞー  


2009年07月03日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき

おのみちまちあるき。。。第48話「いざ、お山に。」 前篇

おのみちまちあるき。。。第48話「いざ、お山に。」

今回のまちあるき、最終目的地がみえてまいりました。

浄土寺の脇に出ると、背後に瑠璃山(浄土寺山)がそびえています。
右側が海龍寺の石段。

改めてみると非常に高い山です。
千光寺山の千光寺と艮神社、西国寺山の西国寺などの関係と同様、
もともとはお寺や神社が山を崇めて祀る目的で山麓に建てられた、
という説にも納得できるところがあります。



頂上付近に巨石のあるのがお分かりでしょうか。
「ふたり」に登場した不動岩です。
不動岩の先には浄土寺の奥の院があり、頂上には展望台も設けられています。
(山麓の浄土寺と山頂の奥の院は、艮神社と千光寺の関係にも重なります)

裏側からぐるりと回りこみ車で頂上近くまで行くことも可能ですが、
やはりそれでは味気ないですし自分の足で歩いて登りましょう。

それにしても遠いですねぇ・・・。

道を進むと「観音のこみち」というコースで頂上まで行くことができます。
ただくれぐれも気合を入れて。
標高差からも分かるように、かなり本格的な山道の「ハイキング」です。
当然、途中には水分補給できる飲み物の自販機も、水道もありません。
体力の消耗もかなりなものですから、
1日中歩き回ってへとへとになった夕方などには入山なさりませんよう。
街灯もなく昼なお暗い山道。
日が暮れると真っ暗ですし、急な斜面や断崖などもあってとても危険です!
(ここからの夕焼けは見事なのですが・・・)
お勧めは、午前中早く、まだ体力が十分ある時分ですね^^。

さあ、いよいよ入山です。
入口には細工の凝った石橋が架かっています。
瑠璃山への入山口なので「瑠璃橋」と名前がついています。
その昔、防地川の川下にあった芝居小屋・偕楽座の前にかかっていたもの。
大正時代に木橋から石橋に架け替えられたものが、
その後道路拡張のため解体され、同じく鉄道以南にかかっていた
他の橋の石材とともに浄土寺に預けられました。
昭和に入ってその材料を使って長さ約13mの石橋を完成させ、橋名を「瑠璃橋」と改めたそうです。
石工の町・尾道ならではの遺物といえますね。



続く

しげぞー  


2009年07月02日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき

おのみちまちあるき。。。第47話「六地蔵様。」

おのみちまちあるき。。。第47話「六地蔵様。」

尾道には寺社が多いだけでなく、
街中や道端、井戸脇に水神様やお地蔵様が祀られているなど、
人々の信仰が篤く、また、よそゆきや冠婚葬祭などの特別な儀式やイベントではなく
日常の一部になっていることがうかがえます^^。

屋外の仏像として1番メジャーなのはやはりお地蔵様ではないでしょうか。
お地蔵様というと、6体並んだ「六地蔵」が各地で見られます。
これは仏教にある「六道輪廻」思想
(あらゆる命は6つの世界のなかで生まれ変わりを繰り返す)
に基づいて、六道それぞれを6体の地蔵が救うという考え方によるものです。

Wikipediaによると・・・
「地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道に対応して檀陀地蔵、
宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障地蔵、日光地蔵と称したり、
金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、
預天賀地蔵と称する」そうです。

六地蔵は墓地の入口や集落のはずれなどに祀られることが多いですね。
生きるものの住む人間界と、その外の異界の境界線で、
道に迷わないよう見守っておられるのでしょうか。
童話「笠地蔵」で、よいことをした村人に米俵などを与えてくださったのは、
村はずれの六地蔵様でしたね^^。

商店街から陸橋を渡った光明寺にも。
麓の「俗」な空間から石段を登るとそこはお寺の境内。
「聖」な空間との境界なのです。



光明寺から古寺めぐりコースを東に歩いた宝土寺にも。



艮神社近くの慈観寺境内や・・・。



千光寺の本堂脇にも。



浄土寺の境内。



そして浄土寺・海龍寺脇から背後の浄土寺山の上にある
浄土寺奥の院への登山道にも六地蔵様が。
昼なお暗い、うっそうとした林の中。
まさに「異界」もとい、お山という古来の「聖域」の雰囲気十分です。



しげぞー  


2009年06月29日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき

おのみちまちあるき。。。第46話「国宝のお寺、浄土寺。」後篇

おのみちまちあるき。。。第46話「国宝のお寺、浄土寺。」 後篇

江戸時代になると、浄土寺は一般民衆の信仰中心の寺院に大変身し、
豪商の外護を受けるようになりました。
お堂の改築や、京都の伏見城から本願寺、
更に向島の商人富島家(屋号・天満屋)を経て
移築されたお茶室「露滴庵」などがその証拠です。
境内を細かく見れば、お堂や塔、石仏、
石の細工1つ1つにもいわれがありそうです。



境内東側のお地蔵様。
鉄笠をかぶっておられるのですが、なぜか宙に浮かせてまるで天使の輪。
わざわざバンダナ風の支柱をたてています。
なぜでしょうか^^。
そして・・・。




多宝塔の石段、下から2段目に丸いくぼみがあります。
雨だれの穴ではありません。
「盃状穴」と呼ばれ古代祭祀の研究家の間ではよく知られるものだそうです。

盃状穴は神社境内の置き石や手洗鉢の縁、灯籠の台石、
狛犬、港の常夜灯などに彫られた小さなくぼみ。
直径も深さも1~3cmほどで小さな盃状の形なのでこう呼ばれます。
弥生時代の遺跡や古墳の石棺の蓋からも見つかり、古代信仰に関連があるのでは、と。
ここにお神酒を注いだり、油を入れて灯明を灯し、
子孫繁栄・五穀豊穣を祈るなどの風習があったといわれますが、
真相はナゾです。。。

浄土寺ばかりでなく、あの御袖天満宮の境内にも盃状穴が見られます。
似た石台が3つあるのですが、なぜか牛の石像前の1つだけにくぼみが。
いわくありげですね^^。






かつて数多くの末寺を持っていた浄土寺。
その1つ「吉祥坊」の石段が、防地口から浄土寺に向かう道の脇に残っています。
時代を経てお堂などありませんが、
奥まった住宅へ続く石段だけが今も歴史を語っています。



吉祥坊といえば・・・「姿三四郎」のモデルで講道館柔道4天王の一人だった
西郷四郎氏に触れなければなりません。
彼は病気療養で来ていたここで、大正11年生涯を終えました。
吉祥坊跡地近くに銅像が建てられています。



しげぞー  


2009年06月26日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき

おのみちまちあるき。。。第46話「国宝のお寺、浄土寺。」前篇

おのみちまちあるき。。。第46話「国宝のお寺、浄土寺。」 前篇

尾道大橋からもほど近い、古寺めぐりコース東の要、浄土寺。
本堂や多宝塔など朱塗りのお堂が広い境内に立ち並び、歴史が感じられる大寺です。
国宝の寺、足利尊氏ゆかりの寺などと呼ばれています。




「ふたり」で実加のピアノ発表会に両親がタクシーで乗りつけた山門を入り、
正面に本堂、右手には中世の仏教建築。
左手には庫裏などの生活空間と庭園、
お茶室(露滴庵)がずらっと並んでいて壮観です。
近世以前の寺院景観を良く残す境内は、
本堂、多宝塔とともに国宝に指定されています。
ほかにも国の重要文化財や県指定重要文化財が沢山あります。




小津安二郎監督の「東京物語」や、
大林監督作品「ふたり」「あの夏の日」にも登場します。
「ふたり」のピアノ発表会シーンで、
実加がシューマンのノベレッテンを弾いていたのはここですね。
(「転校生さよならあなた」の四万温泉・移動教室、
露天風呂でのやりとりの元ネタなのはお気づきですね^^)
某携帯電話、白○家のお父さん(^・土・^)も<まだ見ぬただ友>を探しにきました^^)



飛鳥時代の616年、聖徳太子が開いたと伝えられます。
その後荒れ果てていましたが、鎌倉時代に再興され、堂塔が造営されました。
大火で一度焼失しましたが、すぐ再興され、
その後600年あまり風雪を凌いで現在まで立派な境内を保っています。

中世の尾道は瀬戸内海屈指の良港で経済 ・交通 ・軍事上の要所、
しかも浄土寺は地元の信仰の中心だったので、
公家方 ・武家方共に浄土寺の外護につとめたとか。
後醍醐天皇が因島の地頭職を、足利尊氏も戦勝祈願で
備後国得良郷や因島の地頭職を寄進、
一万巻の観音経を収めました。
足利氏と尾道のつながりについては浄土寺以外にも
2代将軍義詮が天寧寺を寄進したり、
6代将軍義教が西国寺に三重塔を寄進したりと、
何かあったかと言われています。
(浄土寺の寺紋は足利家の家紋である「二つ引両」です。)

続く

しげぞー  


2009年06月25日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき

おのみちまちあるき。。。第45話「ご利益も・・・遠隔?」

おのみちまちあるき。。。第45話「ご利益も・・・遠隔?」

40回以上にわたってつらつらと記してきた「おのみちまちあるき」も、
いよいよ大詰め?が近づいてまいりました^^。
古寺めぐりコースの東端の大寺、浄土寺の隣にあるのが海龍寺です。



もともとは浄土寺再興の時に設けられた僧坊の1つで、
13世紀に「曼茶羅寺」として建立され、本尊・千手観世音菩薩が祀られました。
「海龍寺」という名には江戸時代なったそうです。
背後の浄土寺山にある「くさり山」は修験者の行場として使われ、
今も子供たちの遊び場になっています。
(先日、全国の珍しい風景を紹介する某バラエティ番組でも紹介されました。)



境内には、19世紀に建てられた文楽之墓と初代竹本弥太夫の墓があります。
江戸時代末期、尾道の浜問屋の旦那衆が、大坂から文楽師匠を招いて余暇
を楽しんでいて、師匠の死後、追善供養のため建てたとされています。
人形浄瑠璃にちなんで、お経塚を撫でながら念じると、
持ち前の才能が開花すると言われて、芸事の上達、開運がご利益とされています^^。



浄土寺と比べると境内はこぢんまりとしていて、静かな空間です。
本堂のご本尊・千住観世音菩薩像は普段目にすることができません。
その代わり・・・
正面に、五色の糸をよった紐が垂れ下がっています。



紐の横に説明書きがあります。
「この五色の糸は ご本尊専修観世音菩薩像の手と 繋がっています。
この糸をにぎって念ずると、願いが叶うといわれています。」

なんと、お願いとご利益が観音様とやりとりできる、
糸電話か通信ケーブルのようなものなのです^^。
(普通のお参りが無線LANならば、これは有線ですね。
直接繋がっている分、お願いの伝わり方も確実な気がしませんか。。。)



しげぞー  


2009年06月22日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき

おのみちまちあるき…第44話「生きている!信仰と教訓。」後篇

おのみちまちあるき。。。第44話「生きている!信仰と教訓。」 後篇

天満宮の並びにあるのが大山寺。境内の並びに、
具体的に日を限定した願掛けをするとご利益があるという
「日限地蔵」さまの地蔵堂があります。



地蔵尊左隣には「庚申堂」。
申といえば「猿」。
(奈良の「鹿男あをによし」ロケ地の記事で、奈良町の庚申さまや身代わり猿の話をしましたね)
お堂の屋根を見上げると、鬼瓦のところに不思議なカイブツ?が。
まるで西洋の「グレムリン」のようですね。




「庚申堂」前には<逆三猿>こと「五猿」像があります。
三猿ならば目を覆い、耳をふさぎ口を隠すはずですが、
こちらの像は・・・目を凝らし耳をそばだてて、大声で叫んでいます。
え?それに3体ではないって?よーくご覧下さい。
3体のうち左右の猿の足の間に小さな猿が。。。
合わせて5猿なのです。



「五猿(ご縁) みてご猿(ござる) 
いうてご猿 きいてご猿 まえむき猿 でご猿」
との説明書きが。
かつては平穏に生きてゆくためあえてかかわりを避けたり目立たず
すごすことがよい時代もあったことでしょう。
(身分制度の厳しい時代など、能力云々とは別の
人間関係や理不尽なことに我慢することも多かったのでは?)
しかし、これからの時代、世界にあふれる膨大な情報を広く集め、
前向きに活動してゆくことが大事、ということなのでしょう。
時代が変われば価値観も変わります。



それではもう1つ。
浄土寺の近く、久保小学校と尾道東高校の間にある小道を歩いてゆくと、
ちょっと斜面を登ったところに小さなお社があります。
山の脇にあるので「山脇神社」(山王神社)。
でも、ここがまた面白いのです。
ここでは、狛犬の代わりに、猿が両側に控えています。
しかも拝殿の屋根には鬼瓦の代わりに、これまた愛嬌ある猿たちが。
実に生き生きとした猿たちです。
昔このあたりで深夜に山火事が起きた際、
数百匹の山猿が社殿を囲んでなき叫び、
村人たちに危急を知らせたと伝えられています。
今でも尾道の夏祭りの口火を切って毎年5月第3土曜日に「山王祭」が行われ、
夜店も出て多くの参詣客で賑わいます。
この日から尾道では浴衣を着るそうです。
ここでは信仰は歴史ではなく、今生きている日常の一部なのですね。




しげぞー  
タグ :尾道五猿


2009年06月20日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき

おのみちまちあるき…第44話「生きている!信仰と教訓。」前篇

おのみちまちあるき。。。第44話「生きている!信仰と教訓。」 前篇

尾道の話題でやはりここを語らないわけにはいきません^^。
御袖天満宮です。
「転校生」で2人が転げ落ちたのはまさにここ。



御袖とは、菅原道真が九州大宰府に左遷される時、
尾道での親切な処遇に自分の衣の袖を与えたという故事に由来するものです。
幅5m・55段の石段はいずれも継ぎ目なしの一本石で、
最後の石だけわざと継いでおり、学問の神様に対して
「わが技術いまだ未熟なり」と職人の謙虚な心意気を語るもの。
「完全なものは後は滅びるだけ。人間は神ではなく、
完全なものを作ろうとする驕りはいけない。」という戒めなのだ、
とガイドブックやテレビ番組でも紹介されています。
よく、一番上のこれがその継ぎ目だと思われがちですが、実はこれではありません。
この段はあくまでも社殿の建つ基壇の地面です。



「石段」というのは厳密にはもう1段下。つまり、
これが本当の「継ぎ目」なのです。
(ちょっと見づらいですが、紫の線ではない、もう1本の方。。。)




最近では、尾道をモデルにした「かみちゅ!」というアニメに、
天満宮からの風景と境内、そして艮神社の拝殿を
モデルにした来福神社というのが描かれ
「巡礼」と称したファンが訪れて絵馬を奉納してゆく、
ということもあるようです。
(そして主人公の家が「ふたり」のあの事故現場です^^;)

このように有名な御袖天満宮ですが、過去の修理から時代が経過し、
雨漏りなどによる痛みが徐々に出ていました。
数年前の台風で屋根などに大きな被害を受け、
痛んだ屋根をブルーシートで覆ってしのいでいましたが、
氏子の皆さんや市民、観光客の方々からの寄付で資金を集め、
拝殿の屋根を葺き替えることができました。
修理が終わり、新装なった天満宮は見違えるようです^^。




続く 

しげぞー  


2009年06月19日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき

おのみちまちあるき…第43話「ねじれた?時間と空間。」後篇

おのみちまちあるき。。。第43話「ねじれた?時間と空間。」 後篇

福善寺境内から続く細い路地をゆくと・・・元「タイル小路」。
お住まいの方がタイルを埋め込んだ路地は「時をかける少女」のロケ地となり
観光客が押し寄せました。
「元」とあえてつけたのは・・・ ロケ地めぐりの有名ポイントとして紹介され、
訪れたファンが記念に一言書いたタイルなども置かれていましたが・・・
今は全て撤去され案内看板もなくなりました。
「旅の恥はなんとやら」で、観光客の中にはマナーが必ずしもよくない方がいたりして、
住民の方々の暮らしに支障をきたすようになってしまったのでした。

尾道の良さは「普通の生活」が息づいている路地にこそあります。
京都や奈良のように神社仏閣など歴史的建造物もありますが、
「路地」は夢の世界でもテーマパークでもありません。
お住まいの方々は「キャスト」ではなく、
観光客もその空間にほんの僅かお邪魔させていただく、
という謙虚さがなければシツレイになります。

このあたりが「観光」と「生活」のバランスの難しさです。
どんなに懐かしくノスタルジィあふれる街並みがあっても、
そこに生活感が伴わなければ魅力半減だと思いませんか^^。




どこか懐かしく、人の温かさがある、でもやっぱりどこか異空間、という尾道。
ある程度歩き回っていると時間と空間の感覚がズレてくる気がします。
(東京などのようにきっちり直線と四角などで形作られた街で、
時間ぴったり電車が次々やってくるような生活に浸っていると、
便利ではありますが、時にこういったおおらかさに触れてほっとするのです。)

福善寺の墓地の上、大山寺や御袖天満宮下を抜ける「蓮華坂」近辺には、
こんな風景が。
石段、石垣、家の屋根に電柱・・・
どれひとつ真っ直ぐなものがありません。
きちんと真っ直ぐなのはどれかわかりますか^^;。

(正解は・・・奥の電柱です。)

おおらかな風景の中、ぽかぽか陽気に猫ちゃんも心地よい午睡の中。。。
起こさないようにそぉっとそぉっと^^。




しげぞー  


2009年06月16日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき

おのみちまちあるき…第43話「ねじれた?時間と空間。」前篇

おのみちまちあるき。。。第43話「ねじれた?時間と空間。」  前篇

長い歴史のある尾道、どこを歩いても、古代から中世、近世、
そして近代現代とそれぞれの時代の
歴史の痕跡が見つかりますから歩いていて飽きません。

長江口から線路脇を少し東に歩くと、
線路と国道を挟む左右に崖があります。



「切通し」というには少し広すぎる、両側の崖、昔は左手から右手の海側に
向かって丘の尾根が続いていて、
上に丹花城という城があったと言われています。
右手に残った尾根筋から山陽道に抜ける路地は「丹花小路」といいます。



長江口の「長江」はもともと、入り込んだ入り江の海岸線だった名残で、
事実、長江口の交差点にあるバス駐車場脇には
水の神様、弁天様が祀られています。



かつての丹花山にもお寺があります。
福善寺です。
「転校生」では朝、カズオとカズミが待ち合わせた境内はここ。

「んもぅ、もうちょっと女らしくできないの?プンプン」
スカートの裾をわざとらしくつまんでしゃなりしゃなりとおどけるカズオを見て、
竹箒で掃き掃除をしていた男性が驚いていましたね^^;。
境内の墓地もとても広く立派です。
にっくき蝿と一緒に退治されてしまった?
おばあちゃんの法事が行われたのも、ここ福善寺の墓地でした。



続く

しげぞー  


2009年06月15日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき

おのみちまちあるき。。。第42話「あの時代の痕跡が。」

おのみちまちあるき。。。第42話「あの時代の痕跡が。」

正面真ん中にある巨石に何か違和感が。
そう、「元・石碑?」です。 



ちょっと分かりにくいので近づいてみましょう。
左には小さめ、右には大きめに石の表面が加工されています。
文字の書かれているのが分かりますか?
回転すれば一目瞭然。薄くはなっていますが
「軍」そして戦前風に右から読むと「馬」「犬」「鳩」という文字です。



これは戦前から戦中に作られた「軍馬・犬・鳩慰霊碑」。
人間が引き起こした争いで、国家、いや軍のために
命を捧げた動物たちの慰霊碑と思われます。

軍馬 (騎兵の乗馬、大砲などの牽引、荷物運びなど)
軍犬 (軍用犬/捜索や警備、伝令など)
軍鳩 (伝書鳩)
と、数多くの動物が「人間のため」命を落としました。
部隊の顕彰(と戦没者の慰霊)を目的に記念碑を設けるように、
苦楽を共にした動物たちの慰霊碑をつくることがあったようです。東京、
靖国神社境内の「戦歿馬慰霊像・鳩魂塔・軍犬慰霊像」が有名ですが、
全国の護国神社にも同様のものがあるようです。

おそらく、下の部分にも由来や建立者名など記述されていたのでしょうが、
戦後、民主化の流れのなかで、「黒塗りの教科書」のように、
戦前の日本を肯定する(と思われる)ものを排除する動きから
石碑は倒され碑文も削られたと想像します。

見晴亭の前にあるオベリスクのような巨大な石塔「英霊塔」にも
歴史があるようです。
建設されたのは大正5年。日露戦争で亡くなった方をお祀りした
「忠魂碑」だったのですが(建立者名が「大和敬一郎」と彫られています。
実在の方か架空の名前かは分かりませんが、後者のような気がします。)、
これまた戦後の状況変化で記述が一旦削りとられたようです。
その後、昭和40年、改めて文章が彫られました。
元首相・吉田茂氏の名が。





天寧寺三重塔上から「梟の館」下を通り艮神社に続く道ぞいには
岩肌に小さな穴が穿たれています。
防空壕址だそうです。
空襲は受けなかった尾道ですが、軍都広島や軍港・呉に近い尾道、
備えは怠らなかったのでしょう。
かつての記憶をなくさぬよう現状を維持してゆくという決意の説明書きとともに、
石の梟像とお賽銭籠が設けられています。
(広島に原爆が投下された際には、線路を歩いて逃げてこられた方が、
数多くこの尾道あたりで力尽きたとのお話も耳にしました。
東尾道駅近くの工業団地には、原爆犠牲者の方の慰霊碑が残っています。)



しげぞー  
タグ :尾道石碑


2009年06月12日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき

おのみちまちあるき。。。第41話「頂上にも」 後篇

おのみちまちあるき。。。第41話「頂上にも知られざる・・・」 後篇

かつて、玉の岩は夜になると輝いたという伝説があります。
今は、その伝説に基づいた丸い球体が岩の上に置かれ、
夜にはライトアップされています。




以前、「転校生さよならあなた」のロケ地めぐり記事で書きましたが
信州・松代の竹山稲荷(下)は、スケールこそ違いますが本当にそっくり。
大林監督の潜在意識のなかに、尾道の風景があったのかもしれませんね。



麓からのロープウエイが千光寺本堂をかすめて山頂駅に到着すると、
ちょっと未来的な建物があります。展望レストラン「グリル展望」です。
(名物はタコ&イカの天ぷらがのった<尾道丼>や、<タコラーメン>です)
屋上はオープンデッキの展望台で、尾道水道、晴れた日には瀬戸内海から
はるか四国まで見ることができます。



レストランから下り坂をおりてゆくと門というのはあまりにシンプル、
動物園の入場ゲートのような門があります。
目の前の道標には、「←八畳岩 古城址」と刻まれています。




門をくぐるとちょっとした広場があり、千畳敷と呼ばれています。
中には、朱も褪せ、かなり朽ちて、拝殿と本殿の渡り廊下も落ちかけたお稲荷さまが。
八福稲荷さまというそうです。格子越しに覗きこむと太鼓や蜀台ほか、道具類が残ったままに。




そしてお稲荷さまの手前から右手奥にゆくと、16世紀、
杉原元清に築かれた山城の址が残っています。
山頂の北にある八畳岩と呼ばれる大きな岩には柱穴が穿たれていて、
物見櫓址とも天守址とも言われています。
ここが千光寺山の最高点で、三角点も設置されています。






千畳敷の巨石群には、他にもある「歴史」が残っています。
八畳岩とは別に、お稲荷さまの左手に進んだところにある巨石群です。



しげぞー  


2009年06月09日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき

おのみちまちあるき。。。第41話「頂上にも」 前篇     

おのみちまちあるき。。。第41話「頂上にも知られざる・・・」 前篇

「千光寺山」(大宝山)という名前のもとになる千光寺は、
頂上から少し下った場所に本堂があります。
尾道観光のランドマーク、朱塗りの本堂は、
尾道の別名「玉ノ浦」の由来となった「玉の岩」そば、
三重岩などの巨石群の間にかなり窮屈な感じで建てられています。
(ロープウエイから俯瞰)





本堂の柱の一方は背後の岩に乗り、手前は舞台づくりの建物です。
お堂の前の階段も、左側の上3段以外は、岩を削って形を整えたものです。




なぜ、ここまでこの場所にこだわりお堂を建てたのか、ミステリーの1つです^^。
(せまい岩場に強引にお堂を建てた究極が、
同じ中国地方、鳥取県の山間にある三徳山三佛寺・投入堂です。
ここは本堂こそ駐車場から石段で普通に歩いてゆけるものの、
そこからは深山幽谷。

入山記録をきちんと記帳し、
体調が良好であることを対面で確認したうえでないと入山を許されません。
軽い気持ちで入山し滑落事故などを起こす観光客が毎年何名かおり、
2008年からは当面、2人以上でないと入山禁止、となっています。
まさに荒行、という険しい山道を分け入り、木の根をつかんだり、
ぶら下がる鎖にしがみついて断崖をつたい、必死の思いでよじ登ること1時間半、
ようやく目指すお堂が見えてきます。
役行者(えんのぎょうじゃ)が法力で部材を投げ入れた、
という言い伝えすら納得できるほど、人間業を超えた建物なのです。)



続く

しげぞー  


2009年06月08日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき

おのみちまちあるき。。。第40話「<ふたり>の根っこへ。」

おのみちまちあるき。。。第40話「<ふたり>の根っこへ。」

艮神社脇には、一直線に斜面をのぼる小道がのびています。
「招き猫美術館」というユニークな美術館があり、
2階建ての館内には数多くの招き猫がところ狭しと並んでいます。
尾道を歩いていると方々で目にする、丸石に猫の顔を描いた<福石猫>は、
この美術館の館長である画家、園山春二氏の手によるものです。
以前JRのポスターに登場したこともある尾道のアイドル猫、
小梅ちゃんは、美術館の看板猫^^。
美術館のお客さんに「なでて~」と寄ってきたり、
表の陽だまりで日光浴していたり、といろいろな姿を見せてくれます。



この小道、美術館があることとともに、
以前近辺に猫が多く「猫の小径」と呼ばれていました。
小径の突き当たりはT字路になっていて左右どちらも上り坂。
左に行くと、「転校生」では小猿がいてカズオが駆け上った、狭い石段。
(「ふたり」にも談判シーンで登場しましたね)
右に行くと、少し緩やかな上り坂。
ここも「転校生」オープニングの下校路、また、「野ゆき山ゆき海辺ゆき」にも登場しました。
そして・・・




反対側からみると、「ふたり」で実加が痴漢に追いつかれた、あの場所です。
映画に映っていた街灯と小屋はありません。
数年前までは写真のように、映画同様かなりさびしく、
藪から野犬の親子が顔を出したり、という場所でしたが、
草が刈られ、柵や手すりが整備されていくぶん明るくなりました。
 



それに伴い千津子お姉さん初登場の木の根っこには近づけなくなりましたが。。。
「あした」の恵の家もこの先です。




しげぞー  


2009年06月05日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき

おのみちまちあるき。。。第39話「神様を見下ろし・・・。」

おのみちまちあるき。。。第39話「神様を見下ろし・・・。」

長江口のロープウエイ乗り場横に、立派な石の鳥居があります。
大林作品ではおなじみ、尾道で1番歴史が古いといわれる艮(うしとら)神社です。

千光寺山を背後にして鎮座するこの神社、伝承によると806年、
平安時代の初めの創建です。

はるか奥まで長い参道が続いています。
今は国道や線路で参道が分断された寺社もかつてはこんな感じだったのでしょう。
境内には、楠や銀杏の巨木が沢山立っています。




神社には、山そのものをご神体に、拝殿だけが設けられている、
山岳信仰から始まるところが全国にあります。
千光寺と艮神社は創建年が同じとされることもからも、
神社とお寺という違いこそあれ、何か関連があるのではないかと思われます。

普通は龍である手水台が亀のかたちだったり、
拝殿前の狛犬1対とは別に怪物が
夜な夜な逃げ出さないように?足元を固められていたり・・・
なんともフシギな神域です。
境内には他所から遷されたお社がいくつも並んでいます。
特に立派なのが、最近鳥居の塗り替えられた白玉稲荷さま。
「延命井」にもありましたね。





境内には、千光寺山上部同様に巨石があり、
強い「気」を放っていると言われています。
(拝殿左脇の巨石と隣の楠の巨木の間に立って左右に手を伸ばすと、
確かにぴりぴり電流のようなものを感じるような、感じないような・・・。)




「時をかける少女」でタイムリープ中の和子がやってきた七五三シーン、
「ふたり」ではラブレター暴露の談判に出かけるべく、
真子と2人待ち合わせた場所、
「マヌケ先生」でも鞠男くんが辰村家の使用人・孫蔵さんに
「大将、誰なら?これがワシの屁じゃ!」と
おならをかけられるシーンで登場した艮神社。

境内には荒神社や幸神社、他にも稲荷社などが多数祀られています。
左手を少しあがると、同じく「マヌケ先生」で
落とし穴を掘って校長先生にいさめられる場所が。

それよりなにより、よく考えるとすごい立地なのです。
他の寺社のように道路や線路で参道を分断こそされなかったものの、
参道脇に平行するかたちでロープウエイ乗り場が建てられています。
そして・・・




山麓駅を出発したロープウエイは、山頂の千光寺展望台に向かって
ゆっくり斜面を登ってゆきます。
門、拝殿、本殿・・・神社の真上なのです。
いくら落下防止ネットが張られているとはいえ、
畏れ多くも「神様」の頭上を人間がまたぐロープウエイ、
高所恐怖症でなくとも何だかドキドキします^^;。
(ケーブルカーの下に広がるのが、艮神社境内の楠の大木です。。。)
昔から神仏を身近に感じ、敬いつつもご近所さんのように親しく付き合う、おおらかさ。
これも尾道の魅力ですね。

しげぞー  


2009年06月01日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき

おのみちまちあるき。。。第38話「千光寺山の住民たち。」後篇

おのみちまちあるき。。。第38話「千光寺山の住民たち。」 後篇

千光寺山、山頂の北側に1965年「千光寺グリーンランド」という遊園地がオープンしました。
共楽園から移された猿山のほか、豆電車やジェットコースター、ミニ観覧車などが並び、
子供たちの歓声が絶えませんでした。
(豆電車の停車場には、尾道駅の駅名標が流用されていて貴重でした)

映画「あした」にも、妻娘を亡くした永尾部長(峰岸徹さん)がデスクにおいた
家族写真のバックに観覧車<ボンボリィ>が映っています^^。




大いに賑わいましたが、バブル崩壊、少子化、レジャーの多様化で年々入場者は減り、
営業日も通年からシーズン(春・夏・年始)のみに短縮。
収支ギリギリで営業を続けていましたが、大阪の某遊園地のコースター事故で、
国交省から安全点検を求められ、その費用などで膨大な赤字になると分かり、
2007年夏に廃業、40年余の歴史に幕をおろしました。
遊具類はすっかり撤去されてしまいました。
猿山は当面残り、他の跡地は桜や緑を活かした自然景観公園として活用するそうです。



多門亭には「お猿のかごや」さんがいましたが・・・正真正銘千光寺「猿」山の住民です。
君たちもとりあえずは立ち退きせずに済んでよかったね。

(・王・)「きゃっきゃっ!でも先のことはわからないや」
(・王・)「共楽園からここへの引越しだって・・・所詮僕らは人間の都合次第さ。」

すっかりあきらめムードの猿たちです。




緑豊かな千光寺山には他にも住民が。
出雲屋敷あとにある写真館の庭には時々狸が出てきます^^。
2007年夏、まず顔を見せたのは左の父?狸。
「お初におめにかかりやす。ポン助でやんす。お邪魔するでげす。」

1ヵ月後、安全と判断したのか一家で現れました。
「カミさんとチビたちでげす。全くやんちゃでじっとしてないから困るでやんす。」

そして・・・昨年2008年の初夏に再び登場!
よく見ると毛色が違います。
どうやら昨年の子供たちの1頭らしい。
安心して子育てのできるこの一帯を相続^^?
(あれからまもなく1年。今年も顔を見せるでしょうか。)





人間も、犬猫そして狸ものんびり平和に暮らせる坂道の街。
何だかいいですね^^。

しげぞー  
タグ :千光寺


2009年05月29日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき

おのみちまちあるき。。。第38話「千光寺山の住民たち。」前篇

おのみちまちあるき。。。第38話「千光寺山の住民たち。」 前篇

千光寺山の山頂から中腹にかけては千光寺公園が広がり、
春は桜、つつじが咲き、初夏は藤の花、秋には菊花展の菊がキレイです。
園内には市立美術館や文学のこみち
(「転校生」で2人が痴漢を撃退する場所)などもあり、
山頂の展望台からは尾道市内が一望できるとともに
瀬戸内海の島々が眺められます。
天気の良い日は四国を遠望することもできます。

千光寺山は聖域でしたが、明治に入り千光寺の檀家衆や、
商売で財を成した方々が寄付を持ち寄り、
眺望を楽しめる憩いの場として「尾道共楽遊園」を作ったことから新たな道を歩み始めます。
ここでちょっと、千光寺公園の歩みについて。

西国寺の末寺として長く無住でやや荒れていた千光寺、
明治中ごろ、檀家の集まりで、
三木半左衛門という方が1つの提案をしました。
徳島から藍商人として尾道にきた三木氏は還暦を機に諸国巡礼の旅に出かけ、
岐阜、長野善光寺から、東北、北陸と旅を続けて尾道に戻り、
「全国をまわったが尾道の景観にまさるものはない。
でもお寺が荒れ果てたままでは町の不名誉なので、石段をつくり、お寺を修繕し、
日本一の景色を市民や観光客が楽しめるようにしよう!」と。

尾道の景観は、頼山陽など数々の文化人が褒め称えていましたが、
地元の人々にとってお山はまだ聖域。
上から見下ろすより、麓から見上げる千光寺山の美しさや
尾道水道の風景で満足だったのです。
また、千光寺へ上る参道は細く曲がりくねり、
お年寄りや子供にはとても登りにくい道でした。
(その名残が「千光寺旧道」や「裏参道」だったわけです。)

三木氏は豪商たちに呼びかけて寄附金を集めるとともに工事を進め、
公園の名を「尾道共楽遊園」と命名、
今も残る藤棚や桜の植樹を始めたのでした。
更に、多くの人が参拝、
頂上からの景勝を楽しんでほしいと石段542段を完成させました。

そんなおり、家業を継いでいたご長男が急逝、
心身も経済面も大打撃を受けた三木氏は完成間近の公園を見ながら、
完成で終わりではなく維持管理が必要と考えて、
檀家衆と相談のうえ土地所有者の千光寺から尾道市に寄付し、
運営管理を市にお願いすると決めたのでした。

尾道市へ寄付された「尾道共楽遊園」は整備され2年後に完成。
「千光寺公園」と名前を変えましたが、
町の人々ばかりか全国から観光客の集まる場所として利用されています。
正面右が「見晴亭」、その左に広がる広場が、元「共楽遊園」です。
広場すぐ上の道標にも「左・新公園 右・千光寺」とあります。
山頂の公園ができて中心地が移っていったことを想像させますね。




大正4年ころの「尾道案内」には「千光寺公園」の隆盛が述べられているそうです。

 「千光寺公園は、これ共楽園と称し、総坪数1347坪を有する
 天然の形勝を加える に、池をうがち、魚を放ち、庭をつくり、
 茶寮を設け、花樹を植え、草花をまき、その他
 幾多の人工を施し、春の桜桃、夏の緑陰、秋の紅葉、冬の雪景、
 いずれも画趣 ならざるが中において、陽春3月、桜樹数百株、満山これ花かととまどう共楽園の
 夜桜は、花下に宴飲歌舞するも幾百千、弦歌洋々として湧くところ、行楽の土女
 織るが如く、542段燈道は人をもって埋められ、すこぶる雑踏壮観を極め、付近に
 料亭、貸席、喫茶店等を営むもの少なからず」
    (以上、「千光寺山荘」ホームページ掲載の記事より抜粋)

続く

しげぞー  


2009年05月28日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき

おのみちまちあるき。。。第37話「見晴亭の碇、そして・・。」

おのみちまちあるき。。。第37話「見晴亭の碇、そして・・・。」

千光寺道九合目あたりに1軒の建物があります。
「見晴亭」と呼ばれていますが、
確かにここからの尾道水道の見晴らしは最高でしょう^^。



車や自転車でまわれない坂道、歩いて散策することになりますが、
夏でなくとも天気の良い日など、歩いているうちに喉が渇きます。

実は、尾道の千光寺山、「古寺めぐり」の散策路の途中には
飲み物の自販機が皆無なのです。
(自販機を増設すれば売上は上がるでしょうが、空き缶のポイ捨てや
商品補充の労力など、メリットとデメリットを天秤にかけたのかもしれません。)
メインルートの途中にある唯一の自販機がここです。

尾道散策に出かけられる方は、山麓か頂上付近であらかじめ
水分を十分補給するか、ペットボトル飲料を確保してから
坂道に出発することをお勧めします!
(その代わり、ちょうどのどが渇き小休止したくなる中腹に、
アットホームなお茶屋さんやカフェがいくつも営業中。
せっかくおいでになった尾道、必ずしも便利なことばかりではないことも数々ある坂道で
頑張っておられる方々への還元として、ぜひご利用ください♪
かつて豪商や地元の名士が楽しんだ「千光寺ヒルズ」からの眺望を、
楽しむことができるかもしれません^^)

-と脱線しましたが、この見晴亭脇から千光寺本堂への石段が始まります。
石段をあがり右に曲がればすぐ。
ここですぐ右側に目を向けます。
フェンスと木の電柱の間に、狭いけものみちのようなものがのびています。
いまや人が通ることもほとんどないこの「道」、かつて千光寺山の東側、
出雲街道側からの参道として使われていたのです。
「裏参道」と仮に呼んでいます。




そういう小生も、ここを散歩コースの1つにしているドビンちゃんに
連れてこられるまで存在に気づきませんでした。
見晴亭の上から「ふたり」で実加が痴漢に遭遇するシーンで登場する木の根っこや
石仏のある踊り場をぐるりとまわり、
「あした」の恵の自宅周辺から艮神社上に抜けるこの道。

巨石が沢山転がる急傾斜地なので、落石防止、防災工事は一通りなされていますが、
足場も必ずしも万全ではなく、スニーカーなどそれなりの靴でなければ
一般にお勧めできるコースではありませんが、石を削った階段などに参拝客が
行き交った時代の風景を思わせる場所ではあります。




千津子姉さんの助けで痴漢を撃退した実加が放心状態で河本ピアノ教室に
向かう途中、この石仏の前で雨が降りだしましたね。



しげぞー  


2009年05月25日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(2)おのみちまちあるき

おのみちまちあるき…第36話栄華の名残、忘れられたものたち。

おのみちまちあるき。。。第36話「栄華の名残、忘れられたものたち。」

多門亭だけでなく、千光寺山には歴史を感じさせる数々の痕跡が残されています。

たとえば、山の八合目にある千光寺本堂から頂上の展望台に続く参道脇の林に、
「日本殉情伝・おかしなふたり」「あの夏の日」でロケ地となったポンポン岩や、
松の根が岩を割っているような「岩割の松」などの名所が連続します。
(岩肌には、頼山陽さんの文章が刻み込まれています)



これらメジャーな名所とは別に、こんな石柱がひっそり立っています。



いまや誰も気に留めないこの石柱、大きな岩の前に立っています。
よくみると背後の大岩から削り出されたもののようです。
さすがは石工の町、尾道の技ですね。
文字も彫られています。「千白稲荷社 多門亭」。
昔、件の多門亭が繁盛していたころにお稲荷さまのお社を造営し、
篤く祀られていたのでしょうが、多門亭が撤退、
公園の中心が山頂に移るのとともに存在自体忘れられてしまったようです。
(でも、Googleマップにはきちんと名前が記されています^^)

そして、その肝心のお稲荷様は?というと・・・
石柱の脇から林の中に参道が続いています。
ただ、参道の登り口正面に、頼山陽さんの銅像がどーんと置かれています。
お稲荷様は信仰のパワーも強いとききますが、大丈夫でしょうか^^;。




銅像の脇から崩れた石段をのぼってゆくと、うっそうとした林の奥にお稲荷様が。
表の道から全く気づきませんね。
(撮影中も表の道を通行する観光客が沢山いました。
林から突然出てきた小生にびっくりした方も^^;)
木の鳥居が朽ち、崩れています。片側の柱だけが立ち、
右側は礎石が残るのみ、右には「百度石」と書かれた石もあり、
篤い信仰を集めていたことを感じさせます。




お祠本体は・・・時代の流れとはいえ信仰の対象だった場所ですし、
しかるべき手続きを経て他の場所に御霊遷しや合祀がなされていることでしょう。
そうでなければ、きちんと整備してさしあげたほうが。。。



(熱しやすくさめやすいのが日本人の性格ですが、困った時の神頼み、はいけないですよね^^;。)

しげぞー  


2009年05月22日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)おのみちまちあるき