神戸100年映画祭 「淀川長治さんを偲んで」 その4

その4:淀川さんとの出会い。

私は映画の「外側」でTVCMを作っていた人間。
映画会社に入社しないと撮れない時代、黒澤さんは東宝、小津さんは松竹の監督。
だから松竹の家庭劇『東京物語』を小津さん、
黒澤さんは東宝ブランドの社会劇『天国と地獄』『七人の侍』を撮った。
お二人が逆に入社していたら、それらの作品は存在しなかった。

映画会社の社員でない私は映画を作れないが、CMで得たお金で、ジェームス・ディーンや
ゲーリー・クーパー、クラーク・ゲーブルやターザンなど私の愛した役者さんたちを題材にして、
自主映画、今風にいえばインディーズ、アマチュアフィルムを撮っていた。

そうだ・・・淀川さんがいつも私を舞台に引っぱりあげて
「大林さん、あれやって♪」とオーダーされたことを思い出したので、やりましょうか。
(会場どっと沸き大きな拍手)

世界の映画で一番短く、有名な歌。
年輩の方はご存じと思う。
淀川さんが亡くなって10年歌っていないしどうかな・・・。
(息を整え、大きく息を吸い込む監督)
お~おぉ~、おぉ~お~!
(ターザンの雄叫び。いつもの穏やかで優しげな低音とは全く違う、
張りと伸びのある高音♪『マヌケ先生』では鞠男少年がタンク岩で歌ってましたね:しげぞー)
(場内、割れんばかりの拍手!)
私がターザンを愛したというのはこういうこと。

神戸100年映画祭 「淀川長治さんを偲んで」 その4

実家の隣、お寺<尾道・天寧寺>の境内にあった楠の大木の上に小屋を作り、
母に作ってもらった握り飯を食べて過ごしていた。
朝は、ロープにつかまり叫びをあげておりてきて、
祖父にもらった古い靴の底に錨を打ってタップを踏みながら石段を駆けおり・・・
ロビンフッドのように学校の窓から教室に跳び込む(笑)。
そんな感じに映画の主人公がやることは全部やってみる、という少年だった。

神戸100年映画祭 「淀川長治さんを偲んで」 その4

そんな映画少年が大人になり、レナウンさんのCMに
名作映画の役者さん(そっくりさん)を出演させて、
最後マリリン・モンローのスカートが翻り
「イヤン、イエイエ」というとんでもないのを作っていた(笑)。
淀川さんの日曜洋画劇場枠でOAされていたが、
ある時淀川さんが週刊誌に「こういうCMを作る人が
映画を撮るようになれば日本映画も面白くなるなぁ」と
書いて下さったのが、お声をかけていただいた最初の接点だった。

子供のころから親しんだ雑誌「映画の友」「スクリーン」など
にハリウッド俳優・女優さんと肩を組んだ淀川さんの写真が載っていて羨ましかった。
淀川「チョウジ」と呼んでいた。
国定が忠治なんだしチョウジだろうと(笑)。
子供心に親しみを覚えていたチョウジおじさんからそんな言葉をいただき大感激。
映画会社外の人間が映画館の映画を作るなど思いもよらなかったが、
日本で初めてインディーズ映画作家が
東宝撮影所の真ん中で『ハウス』という映画を撮ることになった。

せっかく外の人間がやるんだし、日本映画の伝統の人が決してできないものを作ろうとしたら
「こんなものが映画?」「とんでもないものをつくりおった!」と。
キネ旬のファン投票では3位くらいだが大人たちには30~40位前後の劇場映画デビューだった。

淀川さんがどんな想いで見ておられるかドキドキ。
『転校生』完成パーティでのことだった。
淀川さんが向こうからとことこ急ぎ足で来てくださり「あんたが大林さん?」
「はいそうです。」
「転校生、いい映画。感動したわ。握手させて。」と。
そんなわけで可愛がっていただきました。

神戸100年映画祭 「淀川長治さんを偲んで」 その4

最近キネマ旬報などの雑誌で始まった動き・企画がある。
過去の偉人を単に懐かしむのではなく、「日本映画はどこかおかしくなっている。
<映画隆盛>と言われるが滅亡の影も垣間見える。
今こそ何とかしないといけない。
淀川さんや、氏の愛された映画をしっかりと考えたい。」というもの。

私も衛星劇場「いつかみた映画館」という番組で毎月2本、
1930~50年代の映画を紹介している。
ディレクターから「淀川さんのように話してほしい。」という注文があり、
上映前後に2~30分その作品について語る。
当時の映画を知らない若い人にとても人気があるらしい。
「昔の映画はなぜこんなに面白いの?今の方が技術は進んでいるはずなのに。」
という疑問が沢山寄せられる。
若い学生さんに映画の学校の話をしたり、その時代の映画を見せたりすると
「映画ってこんなに面白いんですね!」と目を丸くしてびっくりされる。

ということは、映画の中の大切なものを、我々はどこかで失ったのではないか、
だからこそ、淀川さんたちの信じたよき教材としての映画を、
温故知新で、未来のため学び直さねばならない。
どういうものが映画の学校かというと・・・。(ここから、いくつか実例紹介です)

ヒューマニストでコメディアン、温もりあるジャーナリストのチャップリンが戦後、
『殺人狂時代』という映画を作った。
原題は『ムッシュ・ベルドー(Monsieur Verdoux)』だが、チャップリンが殺人狂?
一体どんな映画か青ざめた。

当時はアメリカも戦後の不況。
主人公の男は会社をクビになるが、
家には足の悪い妻と幼い子供がいて養わねばならない。
でもお金がない。
ハンサムな容姿を利用して、お金持ちの未亡人を結婚詐欺でつかまえ、
殺してお金を奪い、家族を養うという映画。
悪事なので、最後は絞首台にのぼるが、
後ろ姿が最後に振り返り、こちらをじっと見つめる。

観客の私たちと目が合うわけで、普通、登場人物と私たちの目が合うことはないので、
どきっとする。
(大林監督も『時をかける少女』で使い観客の少年たちをどきっとさせましたね♪)
彼は口を開きこう言う。

「世界もわが国も、今も戦争をしていて、
戦場で100人、1000人、10000人を殺した者は英雄として迎えられ、
勲章と年金をもらい称えられる。
私のように愛する家族を養うためほんの数人殺した者は犯罪者として絞首刑になる。
正義は数が決めるのか?!」

怖かった。
僕たちは軍国主義から解放されて平和、民主主義時代になった最初の子供。
民主主義は皆が平等に考え、数の多いものが良いとするもの。
これが平和の証だと教わり、平和な時代がくるぞとわくわくしていたところ。
そのアメリカの代表でヒューマニズム、
一番民主主義の人ではないかというチャップリンが自ら疑問を投げかけた。
正義は数が決めるのか?
戦場の人殺しは英雄で、愛する家族のための人殺しは犯罪か、と・・・。
チャップリンも、そういう映画を作ったためアメリカを追放され、
晩年までスイスで過ごさなければならなかった。

芸術家とはいかに、人間の難しい問題を問う力と勇気が必要かと思う。
彼の映画は一見喜劇のようだが、勇気あるジャーナリストだった。
以来、現代の様々な問題も常に、彼の問いかけと共に考えるようにしている。
私がどうやら一人前の大人になれたのも、映画の学校のおかげ。

神戸100年映画祭 「淀川長治さんを偲んで」 その4

(来週に続く)

しげぞー



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2010年03月05日 Posted byひがしざわ  at 08:00 │Comments(0)各地映画祭巡り

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