「あついぞ!熊谷。くまがや賢治祭。」 その1

その1:熊谷と賢治?

8/30(日)埼玉県熊谷市にて開催、くまがや賢治祭での
「その日のまえに」上映&大林監督のトークに行ってまいりました。

埼玉県北の熊谷市は以前ご紹介した深谷市の隣町。
近世には地方武士が勢力を伸ばし、源平の合戦でも一ノ谷の合戦にてひよどり越えで
愛馬を労わり担いで崖を駆け下りた伝説を持つ剛の者・畠山重忠、
そして息子ほどの年齢である平家方の若武者・平敦盛を討ち取ることとなり
世の無常を嘆き、後に出家した熊谷直実らもこのあたりの出身です。


(熊谷駅は新幹線も停まるターミナルです)

江戸時代は中仙道の宿場町として栄え、明治の廃藩置県で「熊谷県」県庁所在地となり、
日本最初の鉄道・新橋-横浜間(現汐留-桜木町)開業から
10年後の1883年「日本鉄道」の手で上野-熊谷間に日本最初の
民間資本による鉄道が開通しました(今の高崎線の一部)。
現在は上越・長野新幹線も停車します。


(昭和63年の運転開始から早20年余のパレオエクスプレス)

熊谷をターミナルに秩父、羽生を結ぶ秩父鉄道は、
セメント原料・石灰岩の輸送も含めて埼玉の東西を結ぶ重要な路線です。
SL C58の牽く客車列車「パレオエクスプレス」が休日は走り、かつて国鉄から購入し
いまや全国でもここでしか走っていない通勤型電車1000型(国鉄101系)も引退を前に、
リバイバル塗色でオレンジ、イエロー、スカイブルーにウグイス色と編成ごとにかつての国電姿に戻り、
ファンの目を楽しませています。



特攻隊員養成の陸軍飛行学校があったためか、米軍の重点攻撃目標として大規模な空襲
(終戦前日8/14、太平洋戦争最後、埼玉県下最大の空襲で市街3/4焼失)
がなされ町は焦土と化しました。
現在の街は戦後復興し作り出されてきたもので、
県北の中心、道路・鉄道東西南北の交通の要衝として機能しています。



夏は非常に暑く冬は非常に寒いところ。
ニュースで最高気温を記録した地名として岐阜県多治見市などと並びご覧になることもあるかと思います。
(2006年、暑さを逆手に「あついぞ!熊谷」という事業が開始され、
人のアツさにも繋げたまちづくりを進めています。
「あついぞホッとcom」というSNSもあり、
地域コミュニティの情報発信・交換に活用されています)

熊谷は宮沢賢治と非常に縁が深く、1996年に賢治生誕百年を
記念し熊谷市民を中心に発足した
「くまがや賢治の会」さまにより、賢治のふるさと花巻の「賢治祭」と連携した
「くまがや賢治祭」が毎年開催されています。
会場は元の中山道(国道17号)沿いにある熊谷八木橋百貨店さま。



八木橋百貨店さまの正面玄関脇には宮沢賢治の歌碑が設置されています。
1916年、賢治は盛岡高等農林学校(現・岩手大農学部)の学生として土壌・地質調査で
秩父地方を訪れた際、今の八木橋百貨店さま近くの宿に泊まり、
熊谷直実らのことを詠んだ短歌2首を残しています。

   「熊谷の 蓮生坊がたてし碑の 旅はこば 泪あふれぬ」
   「武蔵の国熊谷宿に蠍座の淡々ひかりぬ九月の二日」




(続く)

しげぞー  


2009年12月02日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(1)各地映画祭巡り