「あついぞ!熊谷。くまがや賢治祭。」 その3
その3:ウソから出たまこと。未来人たちに託す。
動けば動くほど「ホント」でリアリズムになる。
映画や絵画、小説も人間の「作り物」。
不安なので安心したくてついリアリズムに走るが、高畑氏はあえて絵を止め「ウソ」にした。
「ウソから出たまこと」という素晴らしい日本語があるが、芸術は本当をリアルに描くよりも、
ウソではあるが本当の向こうにまことが見え、私たちを賢く育ててくれるものだと思う。
ウソをつく勇気のある人はあまりいない。
ピカソも最初はリアリズムの絵を描き、修練を重ねてやがて
顔や目がいくつもある難しい絵を描くようになった。
オトナたちはそれを分からないといったが、子供たちはニコニコして
「僕たちの描く絵と同じだ、よくわかる」と(笑)。
子供たちにはオトナにわからないものをわかる能力がある。
オトナはわかった気にならないと生きてゆけないが、
どうして?と訊く子供のおかげで(今更恥ずかしくて訊けないことも訊いてくれるので)
まことに近づくことができる。
例えば「天動説」と「地動説」。
昔は宗教でも科学でもオトナの常識では空が動くと信じていたが、
子供や子供の心を持った人は違う。
「地球が動いても太陽は昇ってみえる。地球が動いているのでは?」
でもそう唱えたガリレオは犯罪者として罰せられた。
オトナの秩序が壊されるわけだから。
でも今は誰もが地動説こそまことと思う時代になった。
私の宮沢賢治との出会いは子供のころ。
父親が戦争の出征からなにかのご縁で無事に戻ってきてくれて、こんなことを話してくれた。
「宮沢賢治という偉いお方が<永遠の未完成、これ完成なり>とおっしゃっている。
お前もオトナになれば自分は完成したと思う日が来るかもしれないが、
その時、人間としての成長が止まるのだぞ」と。
「人間が知ることなど宇宙の中で限りなく小さい。永遠に未完成で、常になぜ?と
考え続けることが宇宙の真理に近づく唯一の道だ。お前も生涯学び、結論を得る
より、疑問を増やして生きてゆきなさい。」と言われたことが私の生き方を決定してくれた。
こうして子供のころから私の中に宮沢賢治がずっと棲み、
この映画も何かの縁で結びついてゆくことになる。

(熊谷はラグビータウンでもあります。駅前にも。。。)
以前、小学生と20冊の本を読んで感想を語り合う「わかる国語」(NHK)という番組に出演し
先生役を引き受けたが、選ぶ本で困った。
子供のころ読んで感動した賢治や芥川の本を薦めようとすると
「今は教科書になく、教師も読んでいないので・・・」と却下(苦笑)。
そこで私の推薦する本と今時の本を10冊ずつ選んだ。
これはこれで今時の先生方や子供たちが読んでいる本が分かり役に立った。
最初の収録で宮沢賢治を選んだ。
彼の作品は句読点なしの文章が何行も続く。
映画でいうならばカット割りなしでワンカットの撮影のように非常に緊張した時間が描かれている。
ところが版が重ねられるたび句読点を入れられ読みやすくなっている(苦笑)。
私はあえて初版本を選んで読ませた。
「こんな文章を学校で書いたらどうなる?」
「先生が赤ペンで点や丸をつけてくれる」
「ボクが新聞で文章を頼まれて3行も句読点がないと入れるよう言われる。
情報化時代の今はわかりやすさが大事だから、句読点を入れて読みやすくするのも大切だね。
じゃ・・・宮沢賢治という人は文章が下手かな?」
子供たちもさすがに宮沢賢治が下手とは言えず黙り込んでしまう。
子供たちに何か投げかけた時は、自ら答えを見つけるまで
一切何も言わず、せかさず、じっと待つことにしている。
子供たちに質問すると5分や10分は平気で黙っている。
その時もただ黙ってニコニコしているとやがて「あの・・・」「なんだい?」「あのね・・・」
10分過ぎてやっと口を開いた(笑)。
「宮沢賢治さんの文章は句読点がないので、10人が皆自分のリズムで読むから、
全員が違う物語として読めます。そこが素晴らしいです。」
子供は未来人。
私たち以上に素晴らしい知性を持つ。
肉体は勿論目に見えない心も育っている。
句読点のない宮沢賢治の文章は読者がそれぞれの物語として読める
から素晴らしいなど、オトナ(文芸評論家や学校の先生)には言えない。
私たちは何百人読んでも答えや解釈は1つというのが正しいとの「常識」の中で生きている。
「情報」ならばそれが正しく、高度経済成長や文明の発展もその結果。
子供たちにもすぐ結果を出すことを求め「永遠の未完成・・・」など言っていたら受験も就職もできない。
その子に「その答えを出すのに時間をかけたのかい?」と聞くと、
「最初からそう思っていたけれど、そんな答えはバカにされるし学校では叱られる。
だから学校では黙っているし、学校をやめたほうがいいかなとも思う。」と。
成績の悪い子だけでなく、こういう子が学校をやめてゆく。オトナより優れた感性や
意見を持つが、オトナのように上手く語るにはまだ未熟なのが子供たち。
その子供と話してしみじみそう思った。
「この子は賢治と同じ感性と心を持ち、未来に向けて発展させてゆける素養がある。
こういう子供を大事にせねばならないし、そういうオトナになれるか問われている。」と。
(以下「その日のまえに」に関するお話に。過去の記事でも何度かご紹介しています
ので、今回は割愛いたします^^)
終了後、ロビーで監督&恭子さんにご挨拶すると「来ると思った(笑)」と笑われ、
くまがや賢治の会さま、上映を担当された深谷シネマスタッフの方々、八木橋百貨店
さまなど関係の方々との交流会にも同席、映画を通じた縁を広げさせていただきました。
実は小生の初めて足を運んだのが、この日の会場から近い市内・星川沿い(このあたり?)の
映画館での「時をかける少女」。
大林作品と初めて出会ったのが熊谷だったのです^^。
(前売り券の特典は確か、ラベンダーの香りつき栞でしたね。
角川文庫さんとの連携で。「いつも青春は、時をかける」笑。)
それから四半世紀、「出会い」の場のすぐ近くで、憧れの大林監督とご一緒できる日がくるとは。。。
小生も「縁」の不思議さをつくづく感じます。
そんなこんなでいろいろな幸運や別のサプライズなどもあり、感慨深い1日でした。


しげぞー
動けば動くほど「ホント」でリアリズムになる。
映画や絵画、小説も人間の「作り物」。
不安なので安心したくてついリアリズムに走るが、高畑氏はあえて絵を止め「ウソ」にした。
「ウソから出たまこと」という素晴らしい日本語があるが、芸術は本当をリアルに描くよりも、
ウソではあるが本当の向こうにまことが見え、私たちを賢く育ててくれるものだと思う。
ウソをつく勇気のある人はあまりいない。
ピカソも最初はリアリズムの絵を描き、修練を重ねてやがて
顔や目がいくつもある難しい絵を描くようになった。
オトナたちはそれを分からないといったが、子供たちはニコニコして
「僕たちの描く絵と同じだ、よくわかる」と(笑)。
子供たちにはオトナにわからないものをわかる能力がある。
オトナはわかった気にならないと生きてゆけないが、
どうして?と訊く子供のおかげで(今更恥ずかしくて訊けないことも訊いてくれるので)
まことに近づくことができる。
例えば「天動説」と「地動説」。
昔は宗教でも科学でもオトナの常識では空が動くと信じていたが、
子供や子供の心を持った人は違う。
「地球が動いても太陽は昇ってみえる。地球が動いているのでは?」
でもそう唱えたガリレオは犯罪者として罰せられた。
オトナの秩序が壊されるわけだから。
でも今は誰もが地動説こそまことと思う時代になった。
私の宮沢賢治との出会いは子供のころ。
父親が戦争の出征からなにかのご縁で無事に戻ってきてくれて、こんなことを話してくれた。
「宮沢賢治という偉いお方が<永遠の未完成、これ完成なり>とおっしゃっている。
お前もオトナになれば自分は完成したと思う日が来るかもしれないが、
その時、人間としての成長が止まるのだぞ」と。
「人間が知ることなど宇宙の中で限りなく小さい。永遠に未完成で、常になぜ?と
考え続けることが宇宙の真理に近づく唯一の道だ。お前も生涯学び、結論を得る
より、疑問を増やして生きてゆきなさい。」と言われたことが私の生き方を決定してくれた。
こうして子供のころから私の中に宮沢賢治がずっと棲み、
この映画も何かの縁で結びついてゆくことになる。
(熊谷はラグビータウンでもあります。駅前にも。。。)
以前、小学生と20冊の本を読んで感想を語り合う「わかる国語」(NHK)という番組に出演し
先生役を引き受けたが、選ぶ本で困った。
子供のころ読んで感動した賢治や芥川の本を薦めようとすると
「今は教科書になく、教師も読んでいないので・・・」と却下(苦笑)。
そこで私の推薦する本と今時の本を10冊ずつ選んだ。
これはこれで今時の先生方や子供たちが読んでいる本が分かり役に立った。
最初の収録で宮沢賢治を選んだ。
彼の作品は句読点なしの文章が何行も続く。
映画でいうならばカット割りなしでワンカットの撮影のように非常に緊張した時間が描かれている。
ところが版が重ねられるたび句読点を入れられ読みやすくなっている(苦笑)。
私はあえて初版本を選んで読ませた。
「こんな文章を学校で書いたらどうなる?」
「先生が赤ペンで点や丸をつけてくれる」
「ボクが新聞で文章を頼まれて3行も句読点がないと入れるよう言われる。
情報化時代の今はわかりやすさが大事だから、句読点を入れて読みやすくするのも大切だね。
じゃ・・・宮沢賢治という人は文章が下手かな?」
子供たちもさすがに宮沢賢治が下手とは言えず黙り込んでしまう。
子供たちに何か投げかけた時は、自ら答えを見つけるまで
一切何も言わず、せかさず、じっと待つことにしている。
子供たちに質問すると5分や10分は平気で黙っている。
その時もただ黙ってニコニコしているとやがて「あの・・・」「なんだい?」「あのね・・・」
10分過ぎてやっと口を開いた(笑)。
「宮沢賢治さんの文章は句読点がないので、10人が皆自分のリズムで読むから、
全員が違う物語として読めます。そこが素晴らしいです。」
子供は未来人。
私たち以上に素晴らしい知性を持つ。
肉体は勿論目に見えない心も育っている。
句読点のない宮沢賢治の文章は読者がそれぞれの物語として読める
から素晴らしいなど、オトナ(文芸評論家や学校の先生)には言えない。
私たちは何百人読んでも答えや解釈は1つというのが正しいとの「常識」の中で生きている。
「情報」ならばそれが正しく、高度経済成長や文明の発展もその結果。
子供たちにもすぐ結果を出すことを求め「永遠の未完成・・・」など言っていたら受験も就職もできない。
その子に「その答えを出すのに時間をかけたのかい?」と聞くと、
「最初からそう思っていたけれど、そんな答えはバカにされるし学校では叱られる。
だから学校では黙っているし、学校をやめたほうがいいかなとも思う。」と。
成績の悪い子だけでなく、こういう子が学校をやめてゆく。オトナより優れた感性や
意見を持つが、オトナのように上手く語るにはまだ未熟なのが子供たち。
その子供と話してしみじみそう思った。
「この子は賢治と同じ感性と心を持ち、未来に向けて発展させてゆける素養がある。
こういう子供を大事にせねばならないし、そういうオトナになれるか問われている。」と。
(以下「その日のまえに」に関するお話に。過去の記事でも何度かご紹介しています
ので、今回は割愛いたします^^)
終了後、ロビーで監督&恭子さんにご挨拶すると「来ると思った(笑)」と笑われ、
くまがや賢治の会さま、上映を担当された深谷シネマスタッフの方々、八木橋百貨店
さまなど関係の方々との交流会にも同席、映画を通じた縁を広げさせていただきました。
実は小生の初めて足を運んだのが、この日の会場から近い市内・星川沿い(このあたり?)の
映画館での「時をかける少女」。
大林作品と初めて出会ったのが熊谷だったのです^^。
(前売り券の特典は確か、ラベンダーの香りつき栞でしたね。
角川文庫さんとの連携で。「いつも青春は、時をかける」笑。)
それから四半世紀、「出会い」の場のすぐ近くで、憧れの大林監督とご一緒できる日がくるとは。。。
小生も「縁」の不思議さをつくづく感じます。
そんなこんなでいろいろな幸運や別のサプライズなどもあり、感慨深い1日でした。
しげぞー