第23回高崎映画祭 その①
3月28日から4月12日まで2週間にわたり開催された第23回高崎映画祭。
期間中は63の作品が上映されました。
5日(日)には大林宣彦監督の『その日のまえに』も上映。
今年は残念ながら授賞式には参加することができませんでしたが、
5日は大林監督も急遽来祭されるとのことで、
りょうにとって5回目の『その日のまえに』鑑賞と併せて、今年も高崎までお邪魔してきました。

本日は、大林監督のトークショーの模様を中心に、
高崎映画祭レポートをお届けさせていただきます。
この日降りた高崎は、穏やかな気候に包まれ、昨年に引き続き訪れた高崎城趾公園では、
満開の桜が出迎えてくれました。
公園には、シートを敷いたたくさんの花見客も。
りょうも映画鑑賞前にしばしお花見を…

『その日のまえに』の上映は、午後1時半から。
会場となった高崎シティギャラリーには長蛇の列ができていました。
映画は、観る度に毎回新しい発見があるのですが、5回目の鑑賞となる今回は、
本ブログで現在『おのみちまちあるき』連載中のしげぞーさん探しを (笑)。
実は、『その日のまえに』には、この『転校生さよならあなた日記』にも
たびたび登場している“チーム長野”の皆さんがエキストラとして参加しているのです。
映画本編上映後、いよいよ大林監督が映画祭スタッフの紹介に促されて登場。
場内に入ると満員の観客に向かって、手を振って笑顔で挨拶をされたあと、
司会進行役の映画祭スタッフと固い握手。
まずは司会者から、『70歳の新人宣言』について聞かれ。
自分が子供の頃は戦争の時代だった。
あの頃の若者たちは、24~5歳が“その日”だった。
自分も、24~5歳で死ぬと思って生きてきた。
だけど、戦争が終わって71歳まで生きることができた。
いま振り返ると、その頃の先輩たちの絵や文章は、見事に美しく、完成されていた。
それに比べて、自分は本当に真剣に生きてきたのか、問い直してみた。
今は幸いにも長寿の時代。
だから、もう一度人生をやり直そう、今から24~5年間一生懸命に生きて、
彼らに負けないような映画業をやっていこうと決意して、新人宣言をした。
70年の間で、映画も変わった。
それは、良い面・悪い面の両方ある。
映画評論家の故淀川長治さんは「映画は学校である」とおっしゃった。
その昔、私たちは映画から生きる術を学んできた。
自分は、70年の経験を活かしながら、子供の頃の映画の素晴らしさを、
いまの若い人たちに伝えていきたい。
そして、新人監督のつもりで、もう一度1960年代までの良い映画を甦らせたい、
との想いを込めてこの作品を創りました。

(高崎シティギャラリー全景)
続いて司会者から、今回の作品は、一本の映画として7つの
各エピソードが違和感なくまとまっていること。
また、細かい部分では、冒頭の「かもめハウス」などの遊びもある。
そこで、この脚本が出来あがるまでの経緯を教えてください、との質問には。
4年前に原作が出たとき、自分も直ぐに読んだ。
そして、これは自分が映画化しなくてはと思い、重松清さんに手紙を送った。
ただ、今は小説が書かれると、直ぐに映画化の権利も決まるご時勢。
ここ20年間は、自分がやりたいと思う作品も手がけることはできなかった。
だから、今回もダメだろうと思っていたところ、重松さんから連絡が入った。
重松さんの心の中では、映画化に際し、
①7編全部を映画にして欲しい。
②泣きの涙の難病ものにはして欲しくない、との思いがあったそう。
葬儀の遺影が胸を張って誇らしげなのは何故か。
それは、悲しい・悔しいだけでなく死も生の一部であり、
むしろ故人がちゃんと生きたことを讃えて欲しいから。
生きている者が、生命を大事にしながら、その一瞬を生きている。
「死を知るが故、“その日”を知るが故に、
今を一生懸命に生きる人たちの元気・勇気を描きたい」
との願いが重松さんにはあった。
しかし、自分以外に8社から映画化のオファーが来ていたが、
他は全て後半3編で2時間の映画にしたいとの話しだった。
そこで、「大林監督なら」という重松さんの期待と、
実は、切手を貼らずに切手の絵を描いて手紙を投函したんですよ(笑)。
だから、自分なら明るく楽しい映画にしてくれるんじゃないかと
重松さんも思われたんじゃないかな、と子供のような無邪気なで笑顔で語られました。
また、映画化にあたり、重松さんからは、
「いま映画化すると、原作人気に便乗した大ヒットを狙う映画のようになる。
だけど、3年経てばみんな小説のことは忘れる。だから、3年後に映画化してみては?」と
アドバイスをいただいたそうで、実際、3年目にあたる昨年に公開となった訳です。
映画を観た重松さんからは、小説を書いているときは、もちろん泣かないけど、
映画を観て最後の30分は涙が止まらなかった。
それも、悲しいからではなく、嬉しくて涙が出た。
映画では、逢わせてあげたいと思っていると、スクリーンに出てくる。
それは、小説ではできない。
また、鏡の前でとし子が泣くシーンには、悲しいだけではなく、生きる勇気がある。
「映画から、もう一度小説を書きたいと思った」との感想をいただいたそうです。
それに対し、大林監督は「今回は小説家と映画作家の良い出逢いがあったんじゃないかな」と
嬉しそうに語られていました。

続く
りょう
期間中は63の作品が上映されました。
5日(日)には大林宣彦監督の『その日のまえに』も上映。
今年は残念ながら授賞式には参加することができませんでしたが、
5日は大林監督も急遽来祭されるとのことで、
りょうにとって5回目の『その日のまえに』鑑賞と併せて、今年も高崎までお邪魔してきました。
本日は、大林監督のトークショーの模様を中心に、
高崎映画祭レポートをお届けさせていただきます。
この日降りた高崎は、穏やかな気候に包まれ、昨年に引き続き訪れた高崎城趾公園では、
満開の桜が出迎えてくれました。
公園には、シートを敷いたたくさんの花見客も。
りょうも映画鑑賞前にしばしお花見を…
『その日のまえに』の上映は、午後1時半から。
会場となった高崎シティギャラリーには長蛇の列ができていました。
映画は、観る度に毎回新しい発見があるのですが、5回目の鑑賞となる今回は、
本ブログで現在『おのみちまちあるき』連載中のしげぞーさん探しを (笑)。
実は、『その日のまえに』には、この『転校生さよならあなた日記』にも
たびたび登場している“チーム長野”の皆さんがエキストラとして参加しているのです。
映画本編上映後、いよいよ大林監督が映画祭スタッフの紹介に促されて登場。
場内に入ると満員の観客に向かって、手を振って笑顔で挨拶をされたあと、
司会進行役の映画祭スタッフと固い握手。
まずは司会者から、『70歳の新人宣言』について聞かれ。
自分が子供の頃は戦争の時代だった。
あの頃の若者たちは、24~5歳が“その日”だった。
自分も、24~5歳で死ぬと思って生きてきた。
だけど、戦争が終わって71歳まで生きることができた。
いま振り返ると、その頃の先輩たちの絵や文章は、見事に美しく、完成されていた。
それに比べて、自分は本当に真剣に生きてきたのか、問い直してみた。
今は幸いにも長寿の時代。
だから、もう一度人生をやり直そう、今から24~5年間一生懸命に生きて、
彼らに負けないような映画業をやっていこうと決意して、新人宣言をした。
70年の間で、映画も変わった。
それは、良い面・悪い面の両方ある。
映画評論家の故淀川長治さんは「映画は学校である」とおっしゃった。
その昔、私たちは映画から生きる術を学んできた。
自分は、70年の経験を活かしながら、子供の頃の映画の素晴らしさを、
いまの若い人たちに伝えていきたい。
そして、新人監督のつもりで、もう一度1960年代までの良い映画を甦らせたい、
との想いを込めてこの作品を創りました。
(高崎シティギャラリー全景)
続いて司会者から、今回の作品は、一本の映画として7つの
各エピソードが違和感なくまとまっていること。
また、細かい部分では、冒頭の「かもめハウス」などの遊びもある。
そこで、この脚本が出来あがるまでの経緯を教えてください、との質問には。
4年前に原作が出たとき、自分も直ぐに読んだ。
そして、これは自分が映画化しなくてはと思い、重松清さんに手紙を送った。
ただ、今は小説が書かれると、直ぐに映画化の権利も決まるご時勢。
ここ20年間は、自分がやりたいと思う作品も手がけることはできなかった。
だから、今回もダメだろうと思っていたところ、重松さんから連絡が入った。
重松さんの心の中では、映画化に際し、
①7編全部を映画にして欲しい。
②泣きの涙の難病ものにはして欲しくない、との思いがあったそう。
葬儀の遺影が胸を張って誇らしげなのは何故か。
それは、悲しい・悔しいだけでなく死も生の一部であり、
むしろ故人がちゃんと生きたことを讃えて欲しいから。
生きている者が、生命を大事にしながら、その一瞬を生きている。
「死を知るが故、“その日”を知るが故に、
今を一生懸命に生きる人たちの元気・勇気を描きたい」
との願いが重松さんにはあった。
しかし、自分以外に8社から映画化のオファーが来ていたが、
他は全て後半3編で2時間の映画にしたいとの話しだった。
そこで、「大林監督なら」という重松さんの期待と、
実は、切手を貼らずに切手の絵を描いて手紙を投函したんですよ(笑)。
だから、自分なら明るく楽しい映画にしてくれるんじゃないかと
重松さんも思われたんじゃないかな、と子供のような無邪気なで笑顔で語られました。
また、映画化にあたり、重松さんからは、
「いま映画化すると、原作人気に便乗した大ヒットを狙う映画のようになる。
だけど、3年経てばみんな小説のことは忘れる。だから、3年後に映画化してみては?」と
アドバイスをいただいたそうで、実際、3年目にあたる昨年に公開となった訳です。
映画を観た重松さんからは、小説を書いているときは、もちろん泣かないけど、
映画を観て最後の30分は涙が止まらなかった。
それも、悲しいからではなく、嬉しくて涙が出た。
映画では、逢わせてあげたいと思っていると、スクリーンに出てくる。
それは、小説ではできない。
また、鏡の前でとし子が泣くシーンには、悲しいだけではなく、生きる勇気がある。
「映画から、もう一度小説を書きたいと思った」との感想をいただいたそうです。
それに対し、大林監督は「今回は小説家と映画作家の良い出逢いがあったんじゃないかな」と
嬉しそうに語られていました。
続く
りょう