トークin深谷シネマ 第4話:<シとセイ。最後に・・・>
トークin深谷シネマ 第4話:<シとセイ。最後に分かれば・・・できた!>
苦労したのはシナリオライター・市川森一さん。
「異人たちとの夏」から 3本目にお願いした映画シナリオですが・・・
「7編全部入れ、しかも皆がさめざめ泣くシーンは一切なしで脚本書ける?」
「7編全部ではわけが分からなくなりますね。」
「でも自分たちが若いころ観た映画はそうだったよね。
いろんな人がどんどん出てきてわけが分からない、
一体どうなるんだろう、とはらはらしていたら最後はうまく糸が結ばれて、
こういう映画だったのか、と分かって面白い、という作品が多かった。
この頃そういう映画がなくなったね。」
良くも悪くもテレビ時代。
テレビドラマは常に分からないとチャンネルを変えられます。
だから、人がこう生きてきて、死の宣告をされ、悩んで、亡くなってお別れした、
と時系列で描くのが分かりやすいが、それでは4時間半(笑)。
「市川さん、最後に分かればいいからやってみない?」
「今時そんな映画を撮ったら途中で帰るお客さんもいるかもしれません。
少なくともテレビでそういうホンを書いたら僕はクビです。」
「僕はクビにしないから(笑)。」
「では昔を思い出して、そういう映画を作りましょうか。」と。
そういう約束で書いてもらったけれど、台本を読んで今度は僕が困った。
1ヶ月返事が出来なかったのは初めてのこと。
毎日読み直しても、宮沢賢治の妹が出てきたり、わけが分からない。
原作を読み返すと17行だけ「永訣の朝」という詩があったのを忘れていた。
「永訣の朝」には妹とし子が出てくるがカタカナのトシ。
でもこの作品ではひらがな。
妹のトシさんが亡くなる時、賢治は大恋愛をしていて、
妹の死とともに恋愛もやめてしまう。
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
雨雪をとってきて、妹が言ったということで、妹の願い、
溶けてゆく透明な雨雪を見ながら恋人との関係もやめてゆくと。
そうか、この精神を生かせばよいのか!と原作の一篇の登場人物、
ギター弾きをとし子にして唄う曲を「永訣の朝」にし、
賢治といえば「セロ弾きのゴーシュ」だからギターをセロに持ち替え、
と発想はどんどん膨らみ、はたと思いついた。
ヒロインの和美も「とし子」にしてしえば一本つながるではないか!と。
そこで重松さんに「申し訳ない。ヒロインの名前をとし子に変えたいのだけれど」と。
思えば失礼な話です(笑)。
すると「映画は大林さんの作品ですから結構です。
ただ、40代にとし子という名の女性はいませんよ(笑)。」とのご指摘。
確かにウチの娘も千茱萸(チグミ)、当時の親である我々は、表現の自由だ!
○○子という名前でなく何か新しい名前を!と私も含めてそういう時代でした。
ならば彼女の父親が宮沢賢治ファンで、
子供の名前は親がつけるのをいいことに、
自分の趣味で娘にとし子という名前をつけたものだから、
やがて孫に
「お祖父ちゃんがとし子という名前をつけたからママは死んでしまうの?」
などと恐ろしいことを言わせる。
これを思いついた時この映画できた!と思ったのです。
続く
しげぞー
苦労したのはシナリオライター・市川森一さん。
「異人たちとの夏」から 3本目にお願いした映画シナリオですが・・・
「7編全部入れ、しかも皆がさめざめ泣くシーンは一切なしで脚本書ける?」
「7編全部ではわけが分からなくなりますね。」
「でも自分たちが若いころ観た映画はそうだったよね。
いろんな人がどんどん出てきてわけが分からない、
一体どうなるんだろう、とはらはらしていたら最後はうまく糸が結ばれて、
こういう映画だったのか、と分かって面白い、という作品が多かった。
この頃そういう映画がなくなったね。」
良くも悪くもテレビ時代。
テレビドラマは常に分からないとチャンネルを変えられます。
だから、人がこう生きてきて、死の宣告をされ、悩んで、亡くなってお別れした、
と時系列で描くのが分かりやすいが、それでは4時間半(笑)。
「市川さん、最後に分かればいいからやってみない?」
「今時そんな映画を撮ったら途中で帰るお客さんもいるかもしれません。
少なくともテレビでそういうホンを書いたら僕はクビです。」
「僕はクビにしないから(笑)。」
「では昔を思い出して、そういう映画を作りましょうか。」と。
そういう約束で書いてもらったけれど、台本を読んで今度は僕が困った。
1ヶ月返事が出来なかったのは初めてのこと。
毎日読み直しても、宮沢賢治の妹が出てきたり、わけが分からない。
原作を読み返すと17行だけ「永訣の朝」という詩があったのを忘れていた。
「永訣の朝」には妹とし子が出てくるがカタカナのトシ。
でもこの作品ではひらがな。
妹のトシさんが亡くなる時、賢治は大恋愛をしていて、
妹の死とともに恋愛もやめてしまう。
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」
雨雪をとってきて、妹が言ったということで、妹の願い、
溶けてゆく透明な雨雪を見ながら恋人との関係もやめてゆくと。
そうか、この精神を生かせばよいのか!と原作の一篇の登場人物、
ギター弾きをとし子にして唄う曲を「永訣の朝」にし、
賢治といえば「セロ弾きのゴーシュ」だからギターをセロに持ち替え、
と発想はどんどん膨らみ、はたと思いついた。
ヒロインの和美も「とし子」にしてしえば一本つながるではないか!と。
そこで重松さんに「申し訳ない。ヒロインの名前をとし子に変えたいのだけれど」と。
思えば失礼な話です(笑)。
すると「映画は大林さんの作品ですから結構です。
ただ、40代にとし子という名の女性はいませんよ(笑)。」とのご指摘。
確かにウチの娘も千茱萸(チグミ)、当時の親である我々は、表現の自由だ!
○○子という名前でなく何か新しい名前を!と私も含めてそういう時代でした。
ならば彼女の父親が宮沢賢治ファンで、
子供の名前は親がつけるのをいいことに、
自分の趣味で娘にとし子という名前をつけたものだから、
やがて孫に
「お祖父ちゃんがとし子という名前をつけたからママは死んでしまうの?」
などと恐ろしいことを言わせる。
これを思いついた時この映画できた!と思ったのです。
続く
しげぞー