御開帳訪問記 後編

訪れた5月24日には、善光寺御開帳にあわせ
善光寺御開帳奉賛会共催企画として行われている、
歴史の町長野を紡ぐ会様の『伝説でめぐる善光寺表参道』と
『うしにひかれて善光寺門前寺めぐり』にも参加をさせていただきました。



午前中の『伝説でめぐる善光寺表参道』では、3班に分かれて長野駅を出発し、
長野駅前の如是姫像からへび塚~かるかや山西光寺~裁松院~
裾花川跡~鶴ヶ橋跡~十念寺(出世大仏)~道祖神~熊野神社と、
主に参道を歩きながら善光寺前の西方寺までを巡りました。

長野駅前に立つ如是姫像が、なぜ駅に対してお尻を向けているのか。
表参道の歩道のど真ん中で人々の往来を遮っているへび塚は、なぜ移設されないのか。
そして西光寺にある大蛇の墓のお話。
長野市の名前の由来。
また、新田町交差点の名前の由縁や裁松院(しまんりょう)、
鶴ヶ橋跡の話では、善光寺門前町にはかつて多くの川が流れていたことに、
一同驚いていました。

途中、大きな神社・仏閣だけでなく長野の町の昔話なども交えながら、
町の移り変わりとともにちょっとした善光寺の門前町の歴史について、
善光寺との縁起だけにとどまらず、
とても奥深いまち巡りとなり、遠くから参加された方も、
たくさんの質問を聞きながら大変満足されていたようです。


(まちめぐりの途中で)

ガイドブックや歴史本に掲載されている知識ではなく、
ずっとその土地に住んでいた人だからこそ
発信できる生の声は大変貴重で、これに勝るまち歩きはありませんよね。

また、午後の『うしにひかれて善光寺門前寺めぐり』では、
西方寺(広小路の“ひ”)で「勢獅子のはじまり」・
「牛に引かれて善光寺参り」・
「幽霊の絵馬」の3本の紙芝居の後、
2班に分かれて、龍樹院(天台寺門宗の“て”)~
本願寺長野別院(西後町の“に”)~康楽寺(開山の海野氏の“う”)~
明行寺(観勝山の“か”)~往生院(蓮池山の“れ”)~
十念寺(紫雲山頼朝院の“し”)と巡りました。

そうです、訪れた7箇所をつなげると「う・し・に・ひ・か・れ・て」になるのですね。

また、この日は、善光寺御開帳奉賛・弥栄神社御祭礼の屋台巡行も行われ、
10の町の屋台が表参道に繰り出し華やかな一日となりました。


(前述の紙芝居のなかにも出てきた、権堂町の勢獅子)

屋台巡行の模様は歴史の町長野を紡ぐ会の代表・小林玲子さんの
善光寺表参道日記』 ←こちらをクリック下さい☆
に詳しく紹介されているので、そちらもぜひご一読下さい。


(どの屋台でも、その先頭は子どもたちです)

そして、御開帳の有名な1シーンとして、様々なパンフレットなどにも掲載されている
本堂前の回向柱(えこうばしら)。
回向柱は、本堂内に安置された前立本尊(阿弥陀如来像)の右手と善の綱で繋がっており、
四方には宇宙の構成要素である五大を意味する梵字が書かれています。
すなわち、この回向柱に触れることによって、
綱を通じ私たちは前立本尊に直接触れたのと同じ御縁が結ばれる、とされているのです。


(善光寺本堂と回向柱)

ちなみに、善光寺の御本尊・一光三尊の阿弥陀如来像は絶対秘仏とされ、
御開帳期間中であっても、その御本尊は決して私たちの前に姿を現すことはありません。
それでは、御開帳では何が開かれているの?と不思議に感じる方もいらっしゃると思いますが、
実際は、御本尊の御分身として鎌倉時代に造られた前立本尊を、
七年に一度御宝庫から本堂にお迎えし、その姿を拝むことがかなうのです。

善光寺本堂の内陣を参拝し、いよいよ前立本尊さまとご対面。
それほど大きなものではありませんが、
存在感のある金色に光輝くお姿は、言葉を忘れるほど美しいものでした。

さて、御開帳の期間中は、『かんだた』のご主人の話では、
権堂まで大勢の観光客が訪れていたそうです。
りょうが訪れた日は、屋台巡行のため、表参道の交通が止められていたので、
鉄道で来た参拝客は、必然的に長野駅から善光寺までの
表参道を歩いて行かなくてはならない形となります。


(この日、お昼の最盛期には、回向柱の列は鐘楼付近まで続いていました。
最後尾の案内の方に聞くと、3時間待ちとのこと。)

それにしても凄い人、人、人。。
長野に多くの観光客が訪れるのは良いことなのでしょうが、
路地サミットでの姫野さんの『観光は地域の資源をすり減らしながら行われている』
と言う言葉が思わず頭に浮かんでしまいました。

次回の御開帳は2016年。
7年後の長野は、どんなまちの姿をしているでしょうか。



りょう  


2009年09月16日 Posted by ひがしざわ  at 08:00Comments(0)未来に紡ぐ